《二入四行與唯識二諦觀義》 - 二入四行と唯識二諦観義

 

『二入四行と唯識二諦観義』

頌曰

二入は心要を標し、
四行は行門を摂す。
真性は同じく顕るといえども、
客塵の妄に覆われて昏し。

二諦は深浅を開き、
五観は情塵を遣る。
禅と唯識は轍を異にすれども、
同じく離執の真に帰す。


論曰

夫れ入道の門は多途ありといえども、要を言えば、理を悟ることと行を修することを出でない。達摩の『二入四行観』は「理入」と「行入」とを綱とする。理入とは、教えに藉って宗を悟り、衆生が同一の真性を有することを深く信じることである。ただしそれは客塵妄想によって覆われている。行入とは、報冤・随縁・無所求・称法の四行によって諸の修行を摂することである。これは初期禅門における安心と発行の要義である。

窺基大師は法相唯識において、四重二諦を広く開いた。すなわち世俗と勝義をそれぞれ四重に分け、名事・事理・深浅・詮旨の次第によって、真と俗が一でもなく異でもない義を示した。また五重唯識観を立てた。すなわち、遣虚存実、捨濫留純、摂末帰本、隠劣顕勝、遣相証性である。これによって諸法を層々に簡択し、ついに円成実性を証する。

いま唯識の義に依ってこれを見るならば、『二入四行観』は八識、四分、百法、三性を詳しく立ててはいないが、その義趣は唯識と相通じないわけではない。なぜか。妄を破って真に帰り、相を離れて法に称い、境に遇っても著しないことは、いずれも遍計を遣り、依他を了し、円成を証する旨を離れないからである。


一、二入と三性との相摂を明かす

理入とは何か。教えに藉って宗を悟り、諸衆生が同一の真性を有することを知ることである。ここでいう「同一真性」は、唯識義によって会通すれば、円成実性に近い。「客塵妄想に覆われる」とは、遍計所執によって起こる妄分別に近い。「妄を捨て真に帰る」とは、虚を遣って実に趣くことである。『二入四行観』の理入は「凝住壁観、無自無他、凡聖等一」を強調する。その趣旨は、能所・自他・凡聖の分別を離れ、理と冥合することにある。

しかし唯識家は、ただ分別を離れることを言うだけではない。分別が何によって起こるのかも明かさなければならない。ゆえに窺基の五重唯識観は、まず遍計所執の虚を遣り、依他と円成の実を存する。さらに心境・体用・王所・事理を展転して簡択し、ついには相を遣って性を証するに至る。

このように見るならば、禅門の理入は直ちに宗に帰することに偏り、唯識の五観は分析によって理に入ることに偏る。禅は「凝住壁観」と言い、唯識は「遣相証性」と言う。言葉は異なるが、趣旨は相通じる。前者は直観を重んじ、後者は次第を重んじる。前者は安心を先とし、後者は簡択を要とする。


二、四行と依他縁起を明かす

行入とは何か。報冤・随縁・無所求・称法の四行である。この四行はいずれも日用の境界の中で修せられる。苦が至っても怨まないのが報冤行である。楽が至っても著しないのが随縁行である。諸の欲境において貪求を起こさないのが無所求行である。性浄の理に依って六度を無相に行ずるのが称法行である。

唯識によってこれを見るならば、報冤と随縁の二行は、まさに依他起性を顕す。衆生の苦楽はみな業縁によって生じ、得失栄辱はみな因縁によって暫く現れる。もし依他の法の上に実我実法を妄執すれば、それは遍計となる。もし依他は幻の如く、縁により生じ縁により滅すると知れば、怨まず喜ばないことができる。ゆえに報冤行は瞋を破り、随縁行は貪を破る。この二つはいずれも行者が境において実執を起こさないようにする。

無所求行は、とりわけ遍計所執を遣ることに近い。世人は処々に貪著する。これを求めるという。智者は万有がみな空であることを知るので、想を止めて求めることがない。『二入四行観』に「求めるところあれば皆苦なり、求めるところなければ即ち楽なり」とある。その義は、行者に事を廃せしめるものではなく、貪著の心をもって境を追わせないことである。

称法行は、唯識の「遣相証性」の旨に最も近い。六度を行じながら行ずるところなく、衆生を利しながら衆生相を取らない。これは依他の事行の中で遍計相に落ちず、円成の理に依って無相の妙行を起こすことである。これは五重唯識観の最後に依他の相用を遣り、円成実性を証する義と、互いに発明し合うことができる。


三、四重二諦によってその深浅を判ずる

問う。もし『二入四行観』がすでに真性を明かしているなら、なぜさらに四重二諦によって判ずる必要があるのか。

答える。そうではない。禅門の言は簡にして、唯識の義は繁である。言が簡であれば入りやすく、義が繁であれば弁じやすい。ただ真性と言うだけなら、人はそれを一つの実体として執する恐れがある。ただ無求と言うだけなら、人は修行を廃することに堕する恐れがある。ゆえに二諦によって分判し、真俗が相離れないことを知らしめる必要がある。

四重二諦の中で、初重の名事二諦は、有名無実と体用の顕現を弁ずる。第二の事理二諦は、蘊処等の事と四諦等の理を弁ずる。第三の深浅二諦は、方便安立と門に依って実を顕すことを弁ずる。第四の詮旨二諦は、仮名非安立と詮を廃して旨を談ずることを弁ずる。その最後の勝義勝義諦は、体妙にして言を離れ、聖智の内証である。

これによって『二入四行観』を見ると、理入の中の「教えに藉って宗を悟る」は、詮に依って理を顕すことに属する。「さらに文教に随わない」は、詮を廃して旨を談ずることに近い。四行の中の報冤・随縁・無所求は、なお世俗縁起の中で修するものである。称法行は俗より真に入り、真に依って行を起こす。ゆえに『二入四行観』は四重二諦を明列しないとはいえ、その義勢は世俗の修行から漸く勝義の内証へ入るものと見ることができる。


四、会通しつつ異を弁ずる

ある説は言う。達摩禅と唯識宗義は異なる。強いて会通すべきではない。

今、私は言う。全く同じとは言えず、また全く異なるとも言えない。全く同じではないとは、禅門は繁密な法相を立てず、八識四分を詳しくせず、百法三性を明文の構造としないからである。唯識は名相の安立、教相の分判、観行の次第を重んじる。全く異ならないとは、二者はいずれも我法二執を破り、妄想が真を覆うことを明かし、分別を離れ真実を証することを帰趣とするからである。

『二入四行観』の勝れた点は簡切にある。それは直接、苦楽得失の中に修行を置き、行者に境に即して心を観ぜしめる。窺基唯識の勝れた点は精密にある。それは、何が遍計の虚妄であり、何が依他縁起であり、何が円成真実であるかを分別し、行者が常断・有無の二辺に堕ちないようにする。

ゆえに、もし禅門に偏って唯識を捨てれば、直截ではあるが分析に欠ける失があり得る。もし唯識に偏って禅門を捨てれば、名相が繁密で身心に切実でない病があり得る。善く学ぶ者は、唯識によってその理路を明かし、禅観によってその実践を励ますべきである。


五、結評

ゆえに知るべきである。

一、『二入四行観』は「理入」によって本具の真性を明かし、「行入」によって日用の修行を明かす。その要は安心・離相・随縁・無求にある。
二、四重二諦の義は真俗の深浅を判じることができ、人に言教の施設が究竟ではないことを知らしめ、しかも言教を離れて悟りを求めてはならないことを知らしめる。
三、五重唯識観は執を遣る次第を明かし、人を遍計を破り、依他を了し、ついに円成を証するに至らしめる。
四、三者は異なる宗風より出るといえども、いずれも妄を破り真を顕し、識を転じて智と成し、執を離れて理を証することを帰趣とする。

ゆえに頌して曰く。

禅門は直入を貴び、
唯識は精詳を重んず。
直入は空寂を防ぎ、
精詳は渺茫を防ぐ。
もし二つを双運できれば、
理と事とはともに彰われる。
境に遇って心は住せず、
法に称うことこそ真常である。


『四重二諦義述記随筆』

頌曰

二諦は唯一なれども、
浅深の義は同じからず。
名事を初めに分判し、
事理は次いで相従う。
深浅は修証を開き、
詮旨は真宗を顕す。
俗より漸く勝に入り、
詮を廃して中に契う。


論曰

諸仏の説法は二諦門に依る。すなわち世俗に依って名言を安立し、勝義に依って実理を顕す。しかし世俗と勝義はそれぞれ一相ではない。機に随い深浅に応じて、義に差別がある。ゆえに慈恩窺基大師は唯識法相に依って、これを四重二諦として開いた。一に名事二諦、二に事理二諦、三に深浅二諦、四に詮旨二諦である。これは四種の世俗と四種の勝義をそれぞれ対にして、四重二諦を成すものである。

四種世俗とは、一に世間世俗、二に道理世俗、三に証得世俗、四に勝義世俗である。四種勝義とは、一に世間勝義、二に道理勝義、三に証得勝義、四に勝義勝義である。前々を後々に望めば、浅いものを俗と名づけ、深いものを真と名づける。後々を前々に望めば、勝れたものを義と名づけ、劣ったものを世と名づける。ゆえに二諦は固定された二法ではなく、ただ智境の浅深、言詮の有無、施設の差別に依って立てられることを知るべきである。


一、第一の名事二諦を明かす

頌曰

世間には仮立多く、
名はあれど実体はなし。
蘊処は我に非ずといえども、
体用は暫く相扶ける。

論曰

第一の二諦とは、世間世俗諦と世間勝義諦を相対するものであり、名事二諦と名づける。

世間世俗諦とは何か。凡夫が情に依って計度し、五蘊和合の上に我・人・衆生・寿者を仮立し、衆縁和合の上に瓶・衣・車・軍・林などの名を仮立することである。これらはただ仮名のみあり、実体はない。真理を隠覆し、世情に随って有るので、世間世俗と名づける。これをまた「有名無実諦」と名づけることができる。

世間勝義諦とは何か。五蘊、十二処、十八界などの諸法である。これらは究竟真実ではないが、我・人・瓶・車などの仮名に対しては、なお体用の差別があり、聖智によって知られ得るので、世間勝義と名づける。この勝義はただ初の俗に勝るのみで、究竟勝義ではない。

問う。もし五蘊処界もまた有為生滅であるなら、どうして勝義と名づけることができるのか。

答える。ここでいう勝義とは究竟離言の真如をいうのではなく、ただ初重の仮名施設に望んでいうのである。かの我・人・瓶・車はただ仮名安立であり、別の自体はない。蘊処界などはなお事相に依って分析でき、因縁の体用を有するので、初俗に対して勝る。勝劣が相対するので勝義と名づける。

ゆえに第一重二諦は、凡夫の粗重な名執を破り、仮名は実ではないと知らしめ、しかも断滅空に堕ちさせないことを意図する。これは「名を破って事を立てる」門である。


二、第二の事理二諦を明かす

頌曰

蘊処は事に随って別なり、
四諦は理を通じて顕す。
事に由って理を知ることができ、
因果の義は窮まりなし。

論曰

第二の二諦とは、道理世俗諦と道理勝義諦を相対するものであり、事理二諦と名づける。

道理世俗諦とは何か。仏が諸法の差別に依って、五蘊、十二処、十八界、百法などの法相を安立し、行者に身心世界は一つの実我ではなく、多くの法が和合し、それぞれ差別を有するものだと知らしめることである。これらは仏法の道理に依って立てられるとはいえ、なお事相の差別に属し、名も相もあるので、道理世俗と名づける。

道理勝義諦とは何か。苦・集・滅・道の四諦、および知・断・証・修など、染浄因果の差別である。これらは聖者の無漏智の所縁境であり、行者に苦を知り、集を断じ、滅を証し、道を修せしめる。ゆえに前の事相分類に勝り、道理勝義と名づける。

問う。もし四諦もまた言教施設であるなら、なぜ勝義と名づけるのか。

答える。それは施設ではあるが、染浄因果と修証次第を詮出することができ、単に蘊処界の事相を分析するだけではない。これによって惑を断じ真を証し、解脱に趣くことができるので、道理世俗に対して勝る。

ゆえに第二重二諦は、事より理に入ることを意図する。初重は名を破って事を立て、第二重は事に依って理を明かす。もし蘊処界を知るのみで苦集滅道を知らなければ、我を破ることはできても、必ずしも証に趣くことはできない。もし四諦因果を知れば、法相より修道に入ることができる。


三、第三の深浅二諦を明かす

頌曰

方便は修証を開き、
安立は入門となる。
空に依って実理を顕し、
二執は漸く痕を失う。

論曰

第三の二諦とは、証得世俗諦と証得勝義諦を相対するものであり、深浅二諦と名づける。

証得世俗諦とは何か。仏が衆生を証悟に趣入させるため、知・断・証・修などの次第を施設し、染浄因果、聖凡差別、修道階位を開示することである。これらは行人を証得に趣かせるので証得と名づける。しかしなお知るべき相、修すべき法、証すべき果があるので、世俗と名づける。

証得勝義諦とは何か。聖智が言詮の空門に依って、二空真如を顕すことである。我空を観じることによって我空所顕の真如を顕し、法空を観じることによって法空所顕の真如を顕す。これは単に修証方便を説くものではなく、方便門に依って実理を顕示するものである。ゆえに証得勝義と名づける。

問う。すでに二空真如と言うのに、なぜなお究竟勝義ではないのか。

答える。それはなお「空門」に依って顕されるからである。およそ依る門があるなら、なお詮表の方便がある。有相修証に勝るとはいえ、言詮に伴う相を離れていない。ゆえに勝義と名づけるが、最後の勝義勝義ではない。

この深浅二諦の中に、唯識修道の義が最もよく顕れる。なぜか。唯識宗が真実に悟入することを説くとき、まず遍計所執を遣り、依他起性を了し、それから円成実性を証する必要があるからである。五重唯識観の中で、前四重は多く依他の識相について唯識理を観じ、第五重において相を遣って性を証し、円成実性を証する。

ゆえに第三重二諦は、方便修証によって二空真如に趣入することを意図する。もし方便安立がなければ、凡夫は道に入る術がない。もし方便を実と執すれば、また法執となる。ゆえに方便に依って方便に住してはならない。


四、第四の詮旨二諦を明かす

頌曰

勝義もなお詮に依り、
名言は宗を離れず。
言を廃して旨を親証し、
聖智は自ずから円通す。

論曰

第四の二諦とは、勝義世俗諦と勝義勝義諦を相対するものであり、詮旨二諦と名づける。

勝義世俗諦とは何か。二空真如、円成実性、唯識実性などは、勝妙の法であり聖者に知られるものである。しかし、もし仮名として安立され、言詮によって顕されるなら、なお離言自証の体ではない。ゆえに勝義世俗と名づける。これは勝義を所詮とし、言説を能詮とする。所詮は勝れているが、能詮はなお俗である。

勝義勝義諦とは何か。真如実性であり、体は妙にして言を離れ、諸の戯論を超え、非有非無、非一非異であり、凡情分別の測るところではなく、ただ聖智によって内証される。これは一切世俗に勝り、また前三勝義にも勝るので、勝義勝義と名づける。

問う。もし離言絶相であるなら、なぜさらに勝義勝義と説くのか。

答える。執を遣るために仮名として説くのである。もし説かなければ、衆生は離言の実理があることを知る由がない。もし説かれたものに執すれば、離言に乖く。ゆえに説いても説に著せず、詮して詮を廃せしめる。これは月を指す指のようなものである。指は月体ではないが、指によって月を見、月を見て指を忘れる。

ある説は言う。もし勝義勝義が離言絶相であるなら、前の諸二諦はみな捨てられるべきである。

破して曰く。そうではない。もし前の諸世俗がなければ、凡を導いて聖に入らせることはできない。もし前三勝義がなければ、粗細の法執を漸く遣ることはできない。ゆえに前々はみな後々の方便であり、後々はみな前々の帰趣である。俗に依って真に入り、真は俗を離れない。詮に因って旨を会し、旨は詮に滞らない。したがって、前の方便を毀ってはならず、また前の方便に執してもならない。

ゆえに第四重二諦は、詮より旨に入り、名言によって離言を顕すことを意図する。ここに至って二諦の義は極まる。言語道断、心行処滅である。証するところが無いのではなく、言を超えた理を証するのである。


五、四重の次第を総明する

頌曰

初めに名言の執を破り、
次に事理の門を明かす。
三には修証に依って入り、
四には詮を廃して真に契う。
浅深に別ありといえども、
真俗は相分かれず。
もしこのように解すれば、
唯識の理ここに聞かれる。

論曰

この四重二諦は、離散して説かれるものではなく、次第として相望するものである。

第一重の名事二諦は、世間の仮名実執を破り、我・人・瓶・車などはただ仮名のみあり、実自体がないことを知らしめる。一方、蘊処界などの縁起事法は相対的に立てることができる。これは粗執を破る門である。

第二重の事理二諦は、蘊処界などの事相に依って、さらに四諦因果、修断証得を明かす。これは事より理に入る門である。

第三重の深浅二諦は、修証の方便に依って二空真如を顕し、行者を有相修道に滞らせず、空門に依って実に趣かせる。これは門に依って実を顕す門である。

第四重の詮旨二諦は、たとえ真如・円成実性を言説しても、それはなお言詮施設であることを知り、最後には詮を廃して旨を談じ、聖智によって内証する。これは離言によって実を証する門である。

以上より知るべきである。四重二諦の施設は、単に名相を分別するためでもなく、また純粋に教義分類に属するものでもない。実に修行者が凡より聖に入り、名より事に入り、事より理に入り、詮より旨に入るための階梯である。学者がただその名に執すれば法執となる。もし善くその義を会すれば、名を借りて名を遣り、詮に因って詮を忘れることができる。


六、五重唯識観を会通する

頌曰

二諦は真俗を判じ、
五観は妄情を遣る。
一つは言教より入り、
一つは識中に明かす。
虚を遣って実を存し、
相を遣って性を証す。
二門は説を異にすれども、
同じく円成の境に趣く。

論曰

四重二諦は主として真俗の浅深を明かし、五重唯識観は主として観行の次第を明かす。五重とは、一に遣虚存実識、二に捨濫留純識、三に摂末帰本識、四に隠劣顕勝識、五に遣相証性識である。この五重は三性義に依って立てられる。初めに遍計所執の虚を遣り、依他と円成の実を存する。後には心境・体用・王所・事理を展転して簡択し、ついに依他の相用を遣って円成実性を証する。

四重二諦を五重唯識に望めば、義は相通じる。初重二諦は仮名実執を破るので、遣虚存実に近い。第二重は事より理に入るので、捨濫留純・摂末帰本の観を助けることができる。第三重は修証方便に依って二空真如を顕すので、隠劣顕勝を助ける。第四重は詮より旨に入るので、最も遣相証性に契う。ただしこれは義理上の方便として相配するものであり、二者の名目が全く同じであるという意味ではない。四重二諦は判教の門であり、五重唯識は観行の門である。

ゆえに唯識を善く学ぶ者は、四重二諦によって真俗の浅深を弁じ、五重唯識観によって心境の妄執を遣るべきである。真俗が明らかになれば、空有に堕ちない。観行が立てば、名言に滞らない。


七、『二入四行観』を会通する

頌曰

理入は教に藉って悟り、
行入は縁に順って修す。
報冤は瞋恚を除き、
随縁は妄求を息める。
称法は無相の行、
壁観は真流に契う。
もし二諦をもって判ずれば、
俗に依って幽に入る。

論曰

『二入四行観』は理入と行入を立てる。理入とは、教に藉って宗を悟り、含生が同一の真性を有することを深く信じることである。ただし客塵妄想に覆われている。もし妄を捨て真に帰り、凝住壁観し、無自無他、凡聖等一となれば、理と冥合する。行入とは、報冤行・随縁行・無所求行・称法行である。

四重二諦によってこれを判ずれば、理入の初めにいう「教に藉って宗を悟る」は、詮に依って旨を顕すことである。後にいう「さらに文教に随わない」は、詮を廃して理を会することである。これは第四重詮旨二諦の義に近い。報冤・随縁の二行は、苦楽得失がみな業縁によることを明かすので、世俗縁起と道理因果に近い。無所求行は、万有がみな空であると観じ、貪著に随わないので、俗より勝に入ることに近い。称法行は、性浄の理に依って六度を行じながら相を取らないので、二空真如に依って無相の妙行を起こすことに近い。

しかし『二入四行観』は四重二諦を詳しく分けず、五重唯識観も立てない。その義は簡直であり、安心を貴ぶ。窺基の法相は義理繁密であり、弁析を貴ぶ。簡直なるものは行人に当下の用功をさせ、繁密なるものは行人を邪解に落とさない。二者は互いに補い合い、相違しない。


八、結論

頌曰

四重は二諦を開き、
層々に執情を遣る。
名事は初めに我を除き、
事理は次に因を明かす。
深浅は修証に通じ、
詮旨は無名に入る。
もし言外の旨を知れば、
唯識性は円成す。

論曰

ゆえに知るべきである。窺基の四重二諦は、ただ名相を分別するものではなく、実に凡夫見より聖智見へ入るための方便である。初めに名事二諦によって仮名執を破り、次に事理二諦によって修証の理を明かし、三に深浅二諦によって二空真如へ導き、四に詮旨二諦によって詮を廃して内証せしめる。

もし世俗だけを執すれば凡情に堕ちる。もし勝義の名言だけを執しても、また法執となる。ゆえに俗に依って真に入り、詮に因って旨を会すべきである。すでに旨を会したなら、世俗を壊さずして世俗に住せず、勝義を離れずして勝義に執しない。

ゆえに四重二諦の宗は、次のように総括できる。

世俗を方便とし、勝義を帰趣とする。
言詮を津梁とし、離言を実証とする。
層々の分判によって執を破り、
詮を廃して旨を証することによって円成する。

これが唯識法相において二諦門に顕される中道義である。


総結論述

総じて言えば、窺基の四重二諦の趣旨は、名相分別を徒に増やすことではなく、層々に分判する方便によって、凡夫を粗執より細観へ、世俗より勝義へと導くことにある。初重の名事二諦は世間の仮名実執を破り、我・人・瓶・車などがみな情に依って施設されたものであることを知らしめる。第二の事理二諦は、蘊処界などの事相に依って四諦因果を開き、行者に諸法を分析することを通して修断証得を知らしめる。第三の深浅二諦は、方便安立に依って二空真如を顕し、修証が有相法門に滞らないようにする。第四の詮旨二諦は、たとえ真如・円成・唯識性などの勝義名言であっても、なお能詮施設に属することを明かし、必ず詮に因って旨を会し、詮を廃して実を証してこそ、勝義勝義となることを示す。

五重唯識観と相望すれば、四重二諦は真俗の浅深を判ずることに偏り、五重唯識は観行の次第を明かすことに偏る。前者は学人に世俗と勝義を混同させず、後者は行者に次第して虚を遣り、濫を捨て、末を摂し、勝を顕し、性を証せしめる。『二入四行観』と相望すれば、達摩の説は簡切直截であり、境に即して安心し、縁に随って無著であることを貴ぶ。窺基の説は精密詳審であり、名相を弁析し、謬執を遣除することを貴ぶ。二者は宗風を異にするといえども、同じく妄を破って真を顕し、執を離れて理を証することを帰趣とする。

ゆえに知るべきである。世俗に依らなければ、修道を施設することはできない。世俗に執着すれば、勝義に契入することはできない。言詮を藉りなければ、真如を指示することはできない。言詮に滞れば、ついに離言実性から隔てられる。善く学ぶ者は、名相の中に無名の旨を明かし、世俗の中に勝義の理を見、修行の中で能所の執を離れ、離言の処において真実の証を成就すべきである。かくのごとく、四重二諦、五重唯識、二入四行は、開合こそ異なるが、みな一つの義に会帰する。方便に依って方便に住せず、勝義に入って世俗を壊さず、妄相を遣って実性を証し、一切境の中で唯識中道を成就するのである。


『唯識、本覚真心を判ずる義』

頌曰

本覚をもし心と言うなら、
義の差別を審らかにすべし。
真如は実性と名づけられ、
生滅識の業に非ず。
蔵識は諸種を持ち、
無覆無記・異熟に摂す。
もし常住主宰と執すれば、
また我法執となる。


論曰

諸論に説かれる「本覚真心」は、義に差別がある。『大乗起信論』によれば、一心は二門を開く。すなわち心真如門と心生滅門である。また「この法身に依って本覚と名づける」と説き、本覚は始覚に対して立てられ、始覚が究竟すれば即ち本覚と同じであるという。これは如来蔵縁起、真心本覚の説である。

しかし玄奘・窺基によって伝えられた法相唯識宗は、「本覚真心」を正面の核心名目とはせず、八識・三性・三無性・二空・真如・円成実性・転依などの門によって、染浄因果と修証次第を分別して建立する。『成唯識論』は明らかに「此諸法の勝義は、また即ち真如なり。常にその性の如くなるが故に、即ち唯識実性なり」と説く。これは真如・唯識実性をもって最勝の真実を安立するものである。

ゆえに今知るべきである。「真心」と言うなら、一概に論じてはならない。二空所顕の真如・円成実性をいうなら、これは唯識の許すところである。阿頼耶識を究竟真心とするなら、これは正義ではない。一つの常一主宰の心が万法を生ずると執すれば、我法二執に堕ちる。


一、真心は三性を離れて別に実体あるものではないことを明かす

頌曰

遍計はすべて体なく、
依他は仮に生ずるあり。
円成は妄執を離れ、
これを唯識の真と名づく。

論曰

唯識宗は三自性を立てる。一に遍計所執性、二に依他起性、三に円成実性である。遍計所執とは、依他の法の上に実我実法を妄執することであり、その体は畢竟して非有である。依他起性とは、諸識および心所などが衆縁に依って生じることであり、幻のごとく有る。円成実性とは、依他起の上に常に遍計所執の我法性を遠離することであり、すなわち二空所顕の諸法実性である。

もしある人が「真心」と言うなら、その指すところを審らかにすべきである。もし円成実性、すなわち諸法勝義、真如、唯識実性を指すなら、唯識義に違わない。『成唯識論』は真如について「真とは真実をいい、虚妄でないことを顕す。如とは常の如きをいい、変易なきことを表す」と説く。ゆえに真如は諸法の実性であり、虚妄分別ではないと知るべきである。

もし三性を離れて別に一つの常住主宰心があり、能く作し、能く受け、能く万法を生ずるというなら、唯識正義ではない。なぜか。『成唯識論』は開宗において実我実法を破し、世間聖教に説く我法は、みな仮立によるもので、実有性はないと説く。我法の相は、識の所変に依って仮施設されるのである。

ゆえに唯識が許す「真心」は円成実性に会帰すべきであり、依他識の外に別に一実体の真我を立ててはならない。


二、阿頼耶識は究竟真心ではないことを明かす

頌曰

蔵識は種子を持ち、
恒に転じて瀑流に似る。
無覆無記の性、
浄にも非ず染修にも非ず。

論曰

問う。もし一切法が唯識であり、阿頼耶識が諸法の所依であるなら、なぜ究竟真心と名づけないのか。

答える。阿頼耶識は初能変であり、種子を摂持し、染浄諸法の所依となるとはいえ、凡夫位においては依他起性に属し、円成実性ではない。その名を阿頼耶というのは、能蔵・所蔵・執蔵の義による。雑染種子と互いに縁となり、また第七末那によって自内我として執されるので、蔵識と名づける。

この識はまた異熟識と名づけられ、善不善業によって感得された異熟果であり、一期間の生命を相続する。しかし『成唯識論』は明らかに、この識は「ただ無覆無記、異熟性なるが故に」と説く。もしこの識が善あるいは染污であるなら、生死流転と修道還滅は成立しない。もし熏を受けることができなければ、染浄因果も成立しない。

これによって知るべきである。阿頼耶識は生死流転と修行還滅の所依であり、究竟清浄の真心ではない。阿羅漢位および菩薩の転依位に至れば、阿頼耶の名は捨てられる。これは識体を断滅するという意味ではなく、その雑染執蔵の義を捨て、清浄な智用へ転ずるということである。

ゆえに「阿頼耶識こそ本覚真心である」と言うべきではない。もしそのように執すれば、依他の識相と円成実性を混同するものであり、唯識宗義を善く解していない。


三、本覚義は方便として会通できるが、実体として執着してはならないことを明かす

頌曰

本覚をもし性と言うなら、
無漏種を因とす。
始覚は修によって顕れ、
凡夫がすでに仏身なのではない。

論曰

ある説は言う。一切衆生にはみな本覚がある。ゆえに凡夫は現前にすでに仏智を具え、修行はただ本心を認め取ればよい。

今、私は言う。この義は『起信論』によればそのように説くことができる。すなわち本覚に依るがゆえに始覚があり、始覚が究竟すれば即ち本覚に同じである。しかし護法・玄奘・窺基の唯識宗に依れば、さらに分別しなければならない。

唯識宗は衆生に成仏の可能性があることを認めるが、その因果次第を「種姓」「無漏種子」「熏習」「五位修行」によって説く。『成唯識論』は、大乗種姓に二つあると説く。一は本性住種姓であり、無始以来、本識に依附して法爾として得られた無漏法因をいう。二は習所成種姓であり、法界等流の法を聞いた後、聞所成などの熏習によって成るものをいう。この二つを具えて初めて、漸次に唯識へ悟入することができる。

また唯識への悟入には略して五位がある。資糧位、加行位、通達位、修習位、究竟位である。資糧位では深く信解し、加行位では二取を伏除し、通達位では如実に通達し、修習位では所見の理に随って数々修習し、余障を伏断する。究竟位に至って初めて障を出て円明となる。

ゆえに唯識が「本覚」を会通するなら、衆生に無漏法因と真如を証する可能性があると解すべきであり、凡夫が現前にすでに仏果の智徳を円満に具え、障を断じ修証する必要がないと解してはならない。二空観を修せず、煩悩障と所知障を断たず、ただ「本来覚」と言うなら、増上慢に堕ちる恐れがある。


四、真如は所証の理であり、万法を生ずる我ではないことを明かす

頌曰

真如は常に如なる性、
言を離れ心をも離れる。
能証を正智と名づけ、
所証は因を成さない。

論曰

問う。もし真如が唯識実性であるなら、なぜ真如が諸法を生ずると言わないのか。

答える。唯識宗において、真如は無為法であり、所証の理である。諸の有為法は阿頼耶識中の種子と衆縁に依って現行する。もし真如が能作能生であり、一つの主宰のようであると言えば、外道の神我と混同する。ゆえに分明にすべきである。真如は諸法の実性であり、造作主体ではない。

円成実性は二空所顕であり、諸法の外に別にある一物ではない。『成唯識論』は、円成実性は遍計所執の我法性を遠離することによって立てられると説く。大虚空が衆色に遍じているといえども、衆色の無性によって顕されるようなものである。この喩えは、真如が別に諸法を造るのではなく、諸依他法の上に妄執を離れて顕れる真実性であることを明らかにする。

もし「真心が万法を生ずる」と言うなら、その義を審らかにしなければならない。識種の現行に依って諸法が唯識所変であるというなら可である。一つの常住真心が造物主のように諸法を生ずるというなら不可である。唯識宗は「識は仮境の所依事であるがゆえに、また勝義に有る」と説くが、この識もなお因縁所生の依他起であり、常一の実体として執してはならない。

ゆえに真如は実性と名づけられ、造作者とは名づけられない。正智は真如を証するが、真如を我とはしない。


五、達摩の真性説を会通する

頌曰

真性は塵に覆われ、
識に依って分明となる。
執を遣って円実に帰し、
壁観は二情を伏す。

論曰

達摩の『二入四行観』は言う。「含生は同一真性を有することを深く信ぜよ。ただし客塵妄想に覆われて顕了することができない。もし妄を捨て真に帰り、凝住壁観すれば……」これは如来蔵、仏性、自性清浄心の説に近い。

法相唯識によってこれを解すれば、「同一真性」は二空所顕の真如、円成実性に会することができる。「客塵妄想に覆われる」は、遍計所執、能取所取、煩悩障と所知障が真如を覆うことに会することができる。「妄を捨て真に帰る」とは、遍計執を遣り、依他起の上に円成実を証することである。「凝住壁観」は、止観によって二取を伏除し、真見を引発する方便と見ることができる。

しかし知るべきである。達摩の語は簡直であり、唯識の義は精密である。達摩の「真性」という言葉に依って実体的真心を執すれば、「無自無他、凡聖等一、無有分別」の旨に違い、また唯識が我法二執を破する宗旨にも違う。

ゆえに二宗は会通できるが、混同してはならない。会通とは、真性を円成実性に会することである。混同してはならないとは、阿頼耶識や妄執された真心を究竟仏性としてはならないということである。


六、三種の誤解を破す

頌曰

心を執して実我とし、
識を認めて真如となし、
凡を謂って即ち円仏とする。
三失はともに除くべし。

論曰

さらに「本覚真心」について三種の誤解があり、それぞれ破すべきである。

一つには、本覚を常一主宰として執すること。これはすなわち我執である。唯識は実我を破し、所執の我は蘊に即するものでもなく、蘊を離れるものでもなく、蘊と即非即・離非離のものでもないと説く。一切の我執は内識所変の五取蘊相に依り、それを妄りに我と執する。ゆえに常一主宰の心は立てられない。

二つには、阿頼耶識を真如と認めること。これはすなわち法執である。阿頼耶識は依他起、有為、異熟、無覆無記であり、種を持ち熏を受けることができる。真如は無為、円成実、唯識実性である。二者は体類が異なり、混濫してはならない。

三つには、凡夫の本覚が即ち仏果円満であると言うこと。これはすなわち増上慢である。唯識は五位漸修を立て、二取二障を伏断し、真如に通達し、転依を修習し、究竟位に至って初めて大菩提を得ると説く。障を断たずして究竟覚を称するなら、唯識正義ではない。

ゆえに三失は除くべきである。一に我執を除き、二に法執を除き、三に未証を証と謂う慢を除く。


七、総結

頌曰

真心は即ち実性、
本覚は因によって明かす。
識相は依他起、
真如は円成となる。
心を執して我とせず、
識を離れずして修行す。
二空により転依を証する、
これ唯識の正宗なり。

論曰

以上より知るべきである。唯識宗は「本覚真心」を見るにあたって、全く遮遣するわけでもなく、また常情の執するように全面的に承認するわけでもない。

真心と言うなら、二空所顕の真如・円成実性・唯識実性であれば立てることができる。本覚と言うなら、衆生が無漏法因を具え、聞熏修習によって真如を証し、成仏転依する可能性があるという意味なら、方便として会通できる。阿頼耶識を究竟真心とし、あるいは一常住主宰心が万法を生ずると言うなら、許すべきではない。

ゆえに唯識宗の正義は四句に総摂できる。

真如は実性であり、実我ではない。
蔵識は依他であり、円成ではない。
本覚を仏因とするなら方便として説くことができる。
もし現成の仏体と執するなら、二空をもってこれを破すべきである。

ゆえに学者が禅宗の真心、如来蔵本覚、法相唯識を会通しようとするなら、三性によって判じ、二空によって清め、転依によって成ずべきである。もし依他の識相の中に遍計執を遣り、二空観の中に円成実を証するなら、いわゆる「本覚真心」は神我に落ちず、断空に堕ちず、唯識中道に相応する。


『慈恩、本覚を判ずる義』

頌曰

本覚の名は勝るといえども、
義は細かく分明すべし。
もし真如の理に約すれば、
円成実性となる。
もし無漏種に約すれば、
法爾の菩提因である。
もし常心体と執すれば、
また我法の情となる。


論曰

夫れ「本覚」と言うものは、諸宗において詮義が同じではない。『大乗起信論』によれば、一心を開いて二門とする。すなわち心真如門と心生滅門である。また「この法身に依って本覚と名づける」と言い、本覚を始覚に対して立て、始覚が究竟すれば本覚に同じであるとする。これは如来蔵縁起門において明かされる本覚義である。

しかし慈恩窺基は、玄奘・護法の法相唯識宗を承け、「本覚」を宗義の中心とはせず、八識・三性・三無性・二空・真如・円成実性・転依などの門によって、染浄因果と修証次第を建立した。窺基の『成唯識論述記』は『成唯識論』に依って第三時唯識中道を明かし、心外実境への有執を破り、また内識を撥無する空執を破る。

ゆえに、「本覚」を慈恩義に会通しようとするなら、まずその義を分別しなければならない。本覚を所証の理に約して説くなら、それは真如・円成実性に摂せられる。本覚を成仏の因に約して説くなら、それは本性住種姓・無漏法因に摂せられる。本覚が一つの常住主宰の真心として執されるなら、それは遍計所執であり、二空観によって破すべきである。『成唯識論』は「此諸法の勝義は、また即ち真如なり。常にその性の如くなるが故に、即ち唯識実性なり」と明かす。ゆえに慈恩宗が立てる究竟真実は、正しく真如・唯識実性と名づけられ、別に一つの実体真心を立てるものではない。


一、本覚を理に約すれば、円成実性と名づけるべきことを明かす

頌曰

真如は常に如なる性、
妄を離れて円成を顕す。
もし本覚の体と言うなら、
それは所証であると知るべし。

論曰

問う。本覚が衆生本具の覚性であるなら、慈恩宗はこれを許すのか。

答える。二義を分けるべきである。もし本覚が二空所顕の真如、諸法実性をいうなら、方便として許すことができる。なぜか。唯識宗は三性を立てる。遍計所執性は、体相が畢竟非有である。依他起性は、衆縁に託して生じ、幻のごとく有る。円成実性は、依他起の上に遍計所執の我法性を遠離したものであり、すなわち二空所顕の真如である。

この真如は虚妄法ではなく、生滅識でもない。論は「真とは真実をいい、虚妄でないことを顕す。如とは常の如きをいい、変易なきことを表す」と説く。ゆえにこの真如は一切位において常にその性の如くであり、唯識実性と名づけられる。

しかしこの真如は所証の理であり、能作能受の主宰心ではない。もし「本覚」を所証の真如とするなら、円成実性に摂すべきである。もし「本覚」を万法を生ずる一実体心とするなら、慈恩唯識義に合わない。

ゆえに知るべきである。

本覚を理に約して説けば、即ち真如・円成実性である。
一常一主宰の実心ではない。


二、本覚を因に約すれば、本性住種姓と名づけるべきことを明かす

頌曰

無始の無漏種、
識に依って法爾に存す。
聞熏によって初めて増長し、
漸次に真門を証す。

論曰

問う。もし一切衆生に本覚があるなら、それは凡夫がすでに仏果の円満智徳を具えていることを意味するのか。

答える。そうではない。慈恩唯識宗は衆生に成仏の可能性があることを明かすが、凡夫が現前にすでに仏果功徳を円具しているとは説かない。その許すところは、無始以来、本識に依附する無漏法因であり、これを本性住種姓と名づける。また法界等流の法を聞き、聞思修の熏習によって成るものを習所成種姓と名づける。この二種姓を具えて初めて、漸次に唯識に悟入することができる。

ゆえに「本覚」を成仏の根拠として用いるなら、本性住種姓・無漏法因に会通できる。これはただ仏果の因と名づけるのであり、仏果がすでに現れているとは名づけない。もしただ「本来覚」と執して、聞熏・加行・断障・転依を廃すれば、唯識五位修道義に違う。

さらに『成唯識論』は唯識に悟入する五位を立てる。資糧位、加行位、通達位、修習位、究竟位である。資糧位では深く信解し、加行位では二取を伏除し、通達位では如実に通達し、修習位では所見の理に随って数々修習し、余障を伏断する。究竟位に至って初めて障を出て円明となる。

ゆえに慈恩義において本覚を因として説くなら、次のように理解すべきである。

本来、成仏し得る因がある。
しかし本来すでに仏果を成じているのではない。


三、阿頼耶識は本覚真心ではないことを明かす

頌曰

蔵識は諸種を持ち、
染浄は互いに依る。
無覆無記の性、
覚体円明に非ず。

論曰

ある説は言う。第八阿頼耶識は一切種子を持ち、諸法の根本である。よって本覚真心であるべきだ。

破して曰く。そうではない。阿頼耶識は初能変であり、能蔵・所蔵・執蔵の義を具え、種子を摂持し、染浄諸法の所依となる。しかしこの識は凡夫位において依他起の有為法であり、円成実の無為真如ではない。

『成唯識論』は阿頼耶識を「ただ無覆無記、異熟性なるが故に」と明かす。窺基の『述記』は、もしこの識が善または染污であれば、流転還滅が成立しないと解釈する。またこの識は善染諸法の所依であり、熏習を受けることができるので、必ず無覆無記でなければならない。

もし阿頼耶識が本覚真心であるなら、常に浄であり常に覚であるべきである。熏を受けるべきではなく、雑染種子の所依であるべきではなく、第七末那によって自内我として執されるべきでもない。今それは能蔵・所蔵・執蔵の義を有し、かつ異熟識・無覆無記識である。ゆえに究竟本覚であるとは言えない。

ゆえに知るべきである。

阿頼耶識は染浄の依であり、究竟覚体ではない。
依他の識相であり、円成実性ではない。


四、慈恩は転依によって修証を判じ、本覚に返ることを正説としないことを明かす

頌曰

始覚が本覚に帰るとは、
起信の説くところなり。
慈恩は転依を明かし、
二障尽きて初めて円かなる。

論曰

問う。『起信論』は始覚が即ち本覚に同じであると説く。慈恩宗はなぜこれに依って立宗しないのか。

答える。これは宗義の施設が異なるのである。『起信論』は一心二門によって迷悟を説き、本覚に依って始覚を説き、始覚が究竟すれば本覚に同じであるとする。

慈恩法相宗は『成唯識論』に依って二空・二障・二果を明かす。論の初めに、二空に迷謬ある者に正解を生じさせるために造論すると説く。二空を証することによって、煩悩障と所知障を断つ。煩悩障を断って真解脱を証し、所知障を断って大菩提を得る。

ゆえに慈恩宗の修証は「本覚に返る」ことを主要表現とせず、「転依」を要とする。すなわち二空智によって雑染依を転捨し、清浄依を転得する。これによって八識を転じて四智と成し、菩提と涅槃の二勝果を成就する。法相宗の教義もまた、識を転じて智と成すことを修学の究極目標とする。

ゆえに知るべきである。

『起信論』は始覚が本覚に契うことを説く。
慈恩宗は二空によって障を断じ、転依によって智を成ずることを説く。

二説は方便として会通できるが、名義の施設を混濫してはならない。


五、本覚には三義の差別があることを明かす

頌曰

一に理、二に因、三に妄執、
三門を分判して相侵さしむるなかれ。
理は円実に帰し、因は種に帰す。
妄執はなお遍計に尋ぬべし。

論曰

さらに慈恩義に依って「本覚」を判ずるなら、略して三種がある。

一、理本覚

二空所顕の真如であり、常にその性の如く、即ち唯識実性である。これは円成実性に摂することができる。もし本覚が妄を離れた理、所証の真をいうなら、過ちはない。

二、因本覚

無始以来、本識に依附する無漏法因であり、即ち本性住種姓である。これは菩提を証し得る因であって、すでに菩提を成じた果ではない。聞熏修習を待って習所成種姓を成じ、初めて漸次に唯識へ悟入することができる。

三、執本覚

凡夫が「本覚」という名の下で、一常一主宰の真心を妄執し、それが万法を生じ、能作能受であるとすることである。これは即ち遍計所執であり、人無我・法無我の二空観をもって破すべきである。『成唯識論』は開宗において実我実法を破し、我法はただ仮立により、識所変に依って施設されるものであり、実有性はないと説く。

ゆえに三義は混同してはならない。もし執本覚を理本覚とすれば常見に堕ちる。もし因本覚を果覚円満とすれば増上慢に堕ちる。もし真如実性を撥無すれば悪取空に堕ちる。


六、達摩の真性説との会通を明かす

頌曰

真性は塵に覆われ、
唯識もまたこれを詮する。
遍計執を尽く遣れば、
円成実性は円かとなる。

論曰

達摩の『二入四行観』は言う。「含生は同一真性を有することを深く信ぜよ。ただし客塵妄想に覆われて顕了することができない。」この語は如来蔵・仏性・自性清浄心の説に近い。

慈恩唯識によってこれを解すれば、「同一真性」は二空所顕の真如・円成実性に会することができる。「客塵妄想に覆われる」は、遍計所執、能取所取、煩悩障と所知障が真如を覆うことに会することができる。「妄を捨て真に帰る」とは、遍計執を遣り、依他起の上に円成実性を証することである。

しかし達摩の語は簡直であり、慈恩の義は精厳である。もし達摩の「真性」という語に依って実体的真心を執すれば、「無自無他、凡聖等一」の旨に違い、また唯識が我法二執を破する宗旨にも違う。

ゆえに会通の道は、次のように説くべきである。

達摩の真性は、慈恩義に依れば円成実性に会することができる。
ただし常住実我として執してはならない。


七、正義を総結する

頌曰

本覚が理に帰すれば、
即ち真如性である。
本覚が因に帰すれば、
無漏種と名づける。
本覚が執となれば、
二空によってその情を破すべし。
慈恩中道の義は、
転依によって円明を証す。

論曰

ゆえに知るべきである。窺基は本覚の義を全く遮遣するのではなく、また常情の執するままに直ちに許すのでもない。もし本覚が真如理体を指すなら、円成実性に摂する。もし本覚が成仏の可能性を指すなら、本性住種姓と無漏法因に摂する。もし本覚が常一主宰の実体心として執されるなら、遍計所執に摂せられ、二空観によって破すべきである。

慈恩宗が「本覚」によって立宗しないのは、学人が「心」「覚」「真如」などの勝義名言の上に、再び法執を起こすことを防ぐためである。ゆえに三性によって真妄を明かし、二空によって我法を破し、五位によって修証を示し、転依によって仏果を成ずる。これが唯識中道の正義である。

ゆえに言う。

本覚という方便名を壊さず、
ただ本覚への実体執を遮る。
真如の勝義性を撥しないが、
真如が主宰我でないことを明かす。
衆生の成仏因を廃しないが、
必ず熏修し、障を断じ、転依しなければならない。

これが慈恩窺基の本覚義判である。