〈五重唯識観(ごじゅうゆいしきかん)〉
略して五重がある:
一、遣虚存実識(けんこぞんじつしき)。
遍計所執(へんげしょしゅう)はただ虚妄に起こるのみであり、全く体(実体)も用(働き)もないと観じて、まさに正しく遣(しりぞ)けて空(くう)とすべきである。情(妄情)には有るが理には無いからである。依他起(えたき)と円成実(えんじょうじつ)の諸法は体が実(真実)であり、二智(根本智と後得智)の境界であると観じて、まさに正しく存(たも)って有(う)とすべきである。理には有るが情には無いからである。
無著(アサンガ)の頌(じゅ)に云う。「名(な)と事(じ)は互いに客(かく)となる。その性はまさに尋思(じんし)すべし。二においてもまた当(まさ)に推(お)し量るべし。ただ量とただ仮のみなり。実智は義(対象)が無いと観じ、ただ分別の三(名・事・自性差別)のみが有るとする。彼(対象)が無いゆえに此(心)も無い。これすなわち三性(さんしょう)に入るなり。」
『成唯識論』に言う。「『識』という言葉は、総じて一切の有情に各々八識、六位の心所(しんじょ)、所変(変現されたもの)の相分(そうぶん)・見分(けんぶん)、分位の差別、およびそれらの空の理によって顕される真如があることを顕す。(一)識の自相であるゆえ、(二)識と相応するゆえ、(三)二つ(識と心所)が変現した所のものであるゆえ、(四)三分位(心不相応行法)であるゆえ、(五)四(前の四つ)の真実の性であるゆえに、このように諸法はすべて識から離れておらず、総じて識と名付けるのである。
『唯』という言葉は、ただ愚夫(凡夫)が執着する、諸識を決定的に離れて色(物質)などが実在するという考えを遮(さえぎ)る(否定する)のみである。」このような文は、誠に証明するものが一つだけではない。
無始(始まりのない過去)よりこのかた、我(が)と法を有(実在)であると執着し、事(事象)と理(真理)を空であると撥(はねの)けてきた。
ゆえにこの観(観法)の中において、遣(しりぞ)けるとは空観(くうかん)であり、有の執着に対して破するものである。存(たも)つとは有観(うかん)であり、空の執着に対して遣けるものである。今、空と有を観じて有と空を遣けるが、有と空がもし無ければ、空と有もまた無い。かの空と有は相待(相対)して観が成り立つのであり、純粋な有や純粋な空というなら、誰にとっての空と有であろうか?
ゆえに、言葉を離れた法性(ほっしょう)に証入しようと欲するなら、すべてこの方便に依って入らなければならない。有と空がすべてすなわち決定的なものであると言うのではない。
真(真如)を証する観の位では、非有非空(有でもなく空でもない)であり、法には分別がなく、性は言葉を離れているからである。空を観じて初めて真を証すると説くのは、かの遍計所執が空であることを観じることを門(入り口)として、真の性に証入するからである。真の体は空ではない。
この唯識という言葉はすでに所執(執着されたもの)を遮っている。もし諸識が実在すると執着するならば、「唯」とすべきである。すでに所執であるからには、また除遣(排除)すべきである。
この最初の門である「所観の唯識」は、一切の位において、思量し修証するものである。
二、捨濫留純識(しゃらんるじゅんしき)。
事と理はすべて識から離れていないと観じるとはいえ、しかしこの内なる識には境(対象)があり心がある。心が起きるには必ず内なる境に託して生じるからである。ただ識について「唯」と言い、「唯境(ただ境のみ)」とは言わない。
『成唯識論』に言う。「識はただ内にのみ有るが、境は外にも通じる。外(の対象と)濫(まぎ)れることを恐れるゆえに、ただ唯識とだけ言うのである。また諸々の愚夫は境に迷い執着して、煩悩と業を起こし、生死(輪廻)に沈淪(ちんりん)する。心を観じることを解さず、ひたすら出離を求める。彼らを哀愍(あいみん)するがゆえに、唯識という言葉を説き、自らの心を観じさせて、生死から解脱させるのである。内なる境が外(の対象)のように全く無いと言っているのではない。」境には濫(まぎらわしさ)があるため、捨てて「唯」と称さない。心の体はすでに純であるから、留めて「唯識」と説くのである。
『厚厳経(大乗密厳経)』に云う。「心、意、識の縁じる所は、すべて自性から離れていない。ゆえに私は一切は、ただ識のみが有って余(他のもの)は無いと説く。」『華厳経』などで「三界唯心」と説き、『遺教経』で「是の故に汝ら、まさに能く心を制すべし。これを一処に制すれば、事として辨(弁)ぜざるは無し」などと言うのも、すべてこの門に摂められる。
三、摂末帰本識(しょうまつきほんしき)。
心の内の所取(認識されるもの)の境界が明らかであり、内の能取(認識するもの)の心の作用もまたそうである。この見分と相分は共に識(自証分)に依って有るのであり、識の自体という「本(根本)」を離れては、「末(枝葉)」の法は必ず存在しないからである。
『三十頌』に言う。「仮に我と法を説くに由って、種々の相の転(展開)が有る。彼(我と法)は識の変じた所(相分と見分)に依る。この能変(変現する主体)はただ三(第八識、第七識、前六識)のみである。」
『成唯識論』に説く。「変とは、識の体が転じて二分(相分と見分)に似ることをいう。相分と見分は共に自体(自証分)に依って起こるからである。」
『解深密経』に説く。「諸識の縁じる所は、唯識の現した所である。」相分と見分という「末」を摂(収)めて、識という「本」に帰するからである。説かれる所の事と理、真と俗の観などは、すべてこの門に摂められる。
四、隠劣顕勝識(おんれつけんしょうしき)。
心(心王)と心所は共に変現することができるが、ただ「唯心」と説き、「唯心所」とは言わない。心王の体は殊勝であり、心所は劣っており勝なるもの(心王)に依って生じる。劣なるものを隠して彰(あらわ)さず、ただ勝なる法のみを顕すのである。
ゆえに慈尊(弥勒)は説く。「心が二(見分と相分)に似て現れることを許すなら、このように(心所である)貪(むさぼり)などに似て現れたり、あるいは信などに似て現れたりして、別に染(煩悩)や善の法は無いのである。」心の自体が能く変じてかの見分と相分の二つに似て現れるとはいえ、貪や信などの体もまた、各々能く変じて自らの見分と相分に似て現れることができる。心が勝(すぐ)れているゆえに、「心が二に似る」と説くのであり、心所は劣っているゆえに、隠して説かないだけである。(心所が二に)似ることができないわけではない。
無垢称(維摩経)に「心が垢(けが)れるゆえに有情は垢れ、心が浄(きよ)らかであるゆえに有情は浄らかである」などと言うのも、すべてこの門に摂められる。
五、遣相証性識(けんそうしょうしょうしき)。
識という言葉が表す所には、具さに事と理がある。事は相(すがた)と用(働き)であり、遣(しりぞ)けて取らない。理は性(本質)と体(実体)であり、まさに求めて証すべきである。
『勝鬘経』には「自性清浄心」と説かれる。
『摂大乗論』の頌に言う。「縄において蛇の覚(認識)を起こすも、縄を見て義(蛇という実体)が無いことを了(さと)る。かの分(麻などの構成要素)を見て証する時、蛇の如く(縄の)智も乱れていると知るのである。」この中で説かれているのは、縄の覚を起こす時に、蛇の覚を遣けるということである。これは依他起を観じて、所執(遍計所執)の覚を遣けることに喩えられる。縄の多くの分(要素である麻)を見て、縄の覚を遣けるのは、円成実を見て、依他起の覚を遣けることに喩えられる。この意図はすなわち、遣けられる所の二つの覚(蛇と縄の認識)はどちらも依他起に依っていることを顕している。この染(妄執)を断じるゆえに、執着された所の「実在の蛇」や「実在の縄」という我と法は、もはや情(妄情)に当たることはない。依他起において称(名言)を以て遣けるというわけではなく、すべて互いに除遣するのである。蛇は妄(妄想)から起きるものであり、体も用も共に無い。縄は麻を借りて生じるものであり、仮の用が無いわけではない。麻は真理に譬えられ、縄は依他起に喩えられる。縄が麻からなる体と用であることを知れば、蛇という情(妄執)は自ずから滅する。蛇という情が滅するゆえに、蛇は情に当たらなくなる。これを所執を遣ける(遣所執)と名付ける。依他起のようにはいかない。聖道によって断じる必要がある。ゆえに漸次(段階的)に真に入り、蛇が空であることを達達(通達)して、縄の分(要素)を悟るのである。真を証する観の位では、真理を照らし出し、そして俗事(世俗の事象)が彰(あらわ)れる。理と事がすでに彰れれば、我と法の(執着)は直ちに息(や)むのである。これがすなわち、一重の所観の体である。
能観の唯識(唯識を観じる主体)は、別境(べっきょう)の慧(え)を以て自体とする。
『摂大乗論』第六には説く。「何の義のゆえに、唯識の性に証入するのか?総法(すべての法)を縁じる出世間の止観の智に由るからである。」
無性(アスヴァバーヴァ)の解(注釈)に云う。「三摩呬多(さまきた:等引、定)の無顛倒(むてんどう)の智に由るからである。」
あるいはある解ではこう言う。能観の唯識は、通じて止(定)と観(慧)を以て自性とする、と。
これもまたそうではない。もし相応を取れば、四蘊(受・想・行・識)を体とする。もし眷属を兼ねれば、すなわち五蘊に通じる。今はかりに名に依って、観の体はただ慧のみとする。
無性はまた云う。「唯識現観の智のゆえに」と。
また云う。「三摩呬多の無顛倒の智に由る」と。これはただ定の中において起きる所の智を挙げて、観の体としているだけである。尋思(じんし)などの優れた唯識観をなすには、必ず定に居るからである。「すなわち止を以て観の体とする」とは言わない。
『摂大乗論』にはまた云う。「四尋思(しじんし)と四如実智(しにょじつち)に由って、このように皆同等に(対象が)不可得(ふかとく)であるからである。諸々の菩薩はこのように如実に唯識に証入するために、勤めて加行を修し、すなわち似文(文に似たもの)と似義(義に似たもの)の意言(意の言葉)において、文と名の推求(推論・探求)はただこれ意言であるとする」と。(中略)広く説かれる通りである。
『瑜伽師地論』、『対法論』などでは、尋思と如実智は皆、慧を体とする。尋思はただ有漏(うろう)のみであり、如実智は無漏(むろう)にも通じる。
『摂大乗論』に「所知相に入る者とは、すなわち多聞熏習(たもんくんじゅう)の所依であり、阿頼耶識に摂められる所のものではない」とあるのは、この文はただ無漏の種子がその位において増長することを挙げて「聞熏(多聞熏習)」と名付け、蔵識(阿頼耶識)ではないと称しているだけであり、諸々の能観(観じる主体)がすべてただ無漏であるというわけではない。
もしそうでないなら、四尋思は加行智ではないことになってしまう。
これは総じて説いたものであるが、もし別々に顕すならば、略して二位がある:
一、因(いん);
二、果(か)。
因は三慧(さんえ:聞慧、思慧、修慧)に通じ、ただ有漏のみである。聞・思・修によって成る所の慧を以て観の体とする。これはただ明利(明晰で鋭い)な簡択(けんじゃく:識別・選択)の性のみであり、生得(生まれつき)の善ではない。
ゆえに『摂大乗論』に云う。「法に似て義に似た意言は、大乗の法相などから生じ起こるものであり、勝解行地(しょうげぎょうじ)、見道、修道などである」と。『成唯識論』に云う。「この中(唯識の修行階位)において、唯識の資糧位の中では、聴聞し思惟して、能く深く信解する。加行位においては、尋思などを起こし、真の見(真実の智慧)を引発する。」果はただ無漏のみであり、修(修習)によって成る所の慧を以て観の体とする。正智(根本智)と後得智(ごとくち)を通じて自体とするからである。
『摂大乗論』などに云う。「理の如く通達するゆえに、一切の障りを治するゆえに、一切の障りを離れるゆえに、見道、修道、無学道となる。その次第の如くである」と。真理の識を証するのは、ただ正体智(根本智)のみである。俗事の識を証するのは、ただ後得智のみである。文が多く義が明らかであるため、教(経典の引用)を引いて証明することはしない。
これまで能観と所観を弁じてきたが、総じてその意義を説くならば、もし総じて「唯識」と言うならば、能観と所観に通じる。「唯識観」と言うならば、ただ能観のみであり所観ではない。有漏と無漏に通じ、散心と定心の両方に通じる。聞・思・修の三慧、ならびに加行智、根本智、後得智の三智を以て自体とする。
もし「唯識三摩地(ゆいしきさんまじ)」と言うならば、有漏と無漏に通じるが、ただ定心のみであり散心ではない。ただ修慧のみであり聞慧と思慧ではない。三智に通じる。
もし「正しく唯識を証す」と言うならば、ただ無漏のみであり有漏ではない。ただ定心のみであり散心ではない。ただ修慧のみであり聞慧と思慧ではない。ただ正智(根本智)と後得智のみであり、加行智ではない。これは意義としての説ではない。
もしそうでないなら、三摩地等もまた聞と思に通じてしまうからである。『十地経論』に説かれている通りであり、以下に至ればまさに知るべきである。
さて、総じて諸教(諸経論)で説かれている一切の唯識を遍く詳細に調べると、五種類に過ぎない:
一、境唯識(きょうゆいしき)、
『阿毘達磨経』に云う。「鬼(餓鬼)、傍生(畜生)、人、天は、各々その応じる所に随って、等しい事象であっても心が異なるゆえに、義(対象)は真実ではないと許(認)める」と。このような文のように、ただ唯識の所観の境(観じられる対象)について説くものは、皆これ境唯識である。
二、教唯識(きょうゆいしき)、
「自心に執着するに由って」等の頌(じゅ)のように、『華厳経』や『解深密経』等で唯識の教えを説くものは、皆これ教唯識である。
三、理唯識(りゆいしき)、
『三十頌』に言う。「これら諸識の転変は、分別(見分)と所分別(相分)である。これに由って彼(我と法)は皆無い。ゆえに一切は唯識である」と。このように唯識の道理を成立させるものは、皆これ理唯識である。
四、行唯識(ぎょうゆいしき)、
「菩薩は定位において」等の頌のように、四種の尋思、如実智等は、皆これ行唯識である。
五、果唯識(かゆいしき)、
『仏地経』に言う。「大円鏡智は、諸々の処(器官)、境(対象)、識が皆その中に現れる」と。
また『如来功徳荘厳経』に言う。「如来の無垢識(むくしき)は、これ浄なる無漏界(むろうかい)であり、一切の障りを解脱して、円鏡智と相応する」と。
『成唯識論』にもまた言う。「これすなわち無漏界であり、不思議、善、常であり、安楽なる解脱身(げだつしん)であり、大牟尼(だいむに:偉大なる聖者=仏陀)は法(大乗の法)と名付ける」と。このように諸々説かれている、唯識によって果(果報・仏果)を得るものは、皆これ果唯識である。
この中で説かれている五種の唯識は、総じて一切の唯識を皆尽くして摂めている。
しかし、諸教の中において、義に就き機根に随って、境唯識について種々の異なった説がある:
あるいは、所執(執着されたもの)に依って唯識を弁じる。『楞伽経(りょうがきょう)』に説く。「自心の執着に由って、心は外の境に似て現れる。かの境は有るにあらざるを以て、是の故に唯心と説く」と。ただ執着する心が虚妄に現れることに依るからである。
あるいは、有漏(うろう)に依って唯識を明かす。『華厳経』に「三界唯心」と説くように。世間(有漏の世界)に就いて唯識を説くからである。
あるいは、所執および有為(うい)に随うことに依って唯識を弁じる。『三十頌』に言う。「仮に我と法を説くに由って、種々の相の転が有る。彼(我と法)は識の変じた所に依る」と。識の自体に依って見分と相分を起こし、二つの執着(我執と法執)が生じるからである。
あるいは、有情(うじょう)に依って唯識を弁じる。『無垢称経(維摩経)』に云う。「心が清浄なるがゆえに、有情は清浄である。心が雑染なるがゆえに、有情は雑染である」と。
あるいは、一切の有・無の諸法に依って唯識を弁じる。『解深密経』に説く。「諸識の縁じる所は、唯識の現した所である」と。
あるいは、事象を指し示すことに随って唯識を弁じる。阿毘達磨契経の頌に言う。「鬼、傍生、人、天は、各々その応じる所に随う」と。一つの事象を指し示すことに随って唯識を弁じるからである。
このような無量の教門があるが、この六門を挙げれば、諸教を類聚(るいじゅう)して摂めることができる。理と義が尽きているものは、ただ第五の教(一切の有・無の諸法に依る)のみである。総じて一切は唯識であると説くからである。
あるいは束ねて三つとする。すなわち境、行、果である。『心経賛(般若心経幽賛)』に広く分別して具わっている通りである。
--- 慈恩基(窺基)師『大乗法苑義林章』巻第一より
