計畫緣起

計畫緣起 - プロジェクトの背景(プロジェクトのはいけい)

プロジェクトの背景(プロジェクトのはいけい)

弥勒菩薩の『瑜伽師地論』「本地分中菩薩地第十五○初持瑜伽処発心品第二」において、菩薩が四つの縁によって発心することが明かされています。以下のように説かれています:

「まさに知るべし、菩薩の最初の発心は、四種の縁、四因、四力によるものである。

四縁とは何か?

善男子、あるいは善女人が、諸仏および諸菩薩が不可思議で甚だ奇なる希有な神変の威力を持つのを見たり、あるいは信頼できる者からそのような事を聞いたりする。その見聞を経た後、このように念じる:「無上菩提は大威徳を具えており、それに安住する者や修行する者に、今見聞きしたような不可思議な神変の威力を成就させるのである。」この見聞の増上力(強力な作用)により、大菩提に対して深い信解(確信と理解)を生じ、これによって大菩提心を発する。

これを第一の初発心の縁と名付ける。


あるいはある者は、前に述べたような神変の威力を見聞きしなくとも、無上正等菩提に基づく微妙な正法である菩薩蔵の教えが説かれるのを聞き、それを聞いて深く信じる。正法を聞き、深く信じるという増上力により、如来の智慧に対して深い信解を生じ、如来の微妙な智慧を得るために、菩提心を発する。

これを第二の初発心の縁と名付ける。

あるいはある者は、上記のような正法を聞かなくとも、一切の菩薩蔵の法がまさに滅びようとしているのを見る。この事を見た後、このように念じる:「菩薩蔵の法が長く世に留まれば、無量の衆生の大いなる苦しみを滅することができる。私は菩薩蔵の法を護持し、菩提心を発して、無量の衆生の大いなる苦しみを滅するべきである。」菩薩蔵の法を護持しようとする増上力により、如来の智慧に対して深い信解を生じ、如来の微妙な智慧を得るために、菩提心を発する。

これを第三の初発心の縁と名付ける。

あるいはある者は、正法が滅びようとするのを見なくとも、末劫、末世、末時において、濁悪の衆生の心身が、十の随煩悩(付随する煩悩)によって悩乱されているのを見る。すなわち、愚痴が多く、慚愧(恥じらい)がなく、慳嫉(物惜しみと嫉妬)が多く、憂苦が多く、麤重(そじゅう:煩悩による心身の重苦しさ)が多く、煩悩が多く、悪行が多く、放逸が多く、懈怠(怠け)が多く、不信が多いのを見る。この事を見た後、このように念じる:「大いなる濁悪の世、まさに今、諸々の随煩悩によって悩乱されている時に、下劣な声聞や独覚の菩提心を発する者でさえ得難いのに、ましてや無上正等菩提に対して心を発することができる者がいるだろうか。私はまさに大菩提心を発し、この悪世の無量の有情(生きとし生けるもの)を私に随って学ばせ、菩提の願いを起こさせるべきである。」末劫において発心し難いのを見るという増上力により、大菩提に対して深い信解を生じ、これによって大菩提心を発する。

これを第四の初発心の縁と名付ける。


前言(はじめに):
 
最後身(最後の生まれ)の菩薩である弥勒菩薩は、『瑜伽師地論』において四依(四つの依り所)を正しく修めることについて説いています。「菩薩はどのように四依を正しく修めるのか?諸々の菩薩は義(真理・意味)を求めるために他者から法を聞くのであり、世間の美辞麗句を求めるためではない。菩薩が義を求め、文(言葉の表面的な美しさ)を求めずに法を聞く時、たとえありふれた言葉による説法に出会ったとしても、ただ義に依って、恭敬して聴受する。また、諸々の菩薩は闇説(理に合わない説)と大説(真理にかなった説)を如実に了知する。如実に知った後、理に依るのであり、長老であるか、大衆に広く知られた補特伽羅(プドガラ=個人・人)であるか、あるいは仏、あるいは僧が説いた法であるかによって直ちに信受するわけではない。それゆえに補特伽羅(人)に依らないのである。このように菩薩は理を依り所とし、補特伽羅を依り所としないため、真実の義に対して心が動揺することはなく、正法において他の縁に奪われることはない。」とあります。菩薩は理に依り、補特伽羅(人)を依り所とせず、そして証得した真実の義に対して心を動揺させません。そのため『瑜伽師地論』には、「もしある人が『菩薩は何を根本とするのか?』と問うたなら、決定して『大悲を根本とする』と答えるべきである」とあります。真実の義において動揺せず、さらに大悲を根本とします。『瑜伽師地論』はもともと説一切有部から出たものであるため対法(アビダルマ)を重んじますが、菩薩の対法論の中では三性(さんしょう)・三無性(さんむしょう)の真義も提唱されています。衆生がこれを知らず、理解せず、証得していないため、三転法輪の真の勝義諦(究極の真理)が明らかになっていないのです。
 
そのため『無尽意経』ではさらにこう説かれています。「法に依りて人に依らないとはどういうことか?『人』とは、作者や受者(行為をする者、報いを受ける者)という見解を摂取することである。『法』とは、作者や受者という見解がないと理解することである。『人』とは、凡夫、善人、信行人、法行人、八人、須陀洹(しゅだおん)、斯陀含(しだごん)、阿那含(あなごん)、阿羅漢(あらかん)、辟支仏(びゃくしぶつ)、菩薩、そして一人が世に出ることで多くの利益をもたらし、多くの人が安楽を受け、世間を憐れんで大悲心を生じ、人や天の中で多くの潤いをもたらす者、いわゆる仏世尊のことである。このような名前の仏は、世俗の諦(真理)に依って衆生を教化するためにこのように説かれたのである。もしこのような見解を摂取する者がいれば、それは『人に依る』と言う。如来は、人の見解を摂取する者を教化するために、『法に依って人に依らない』と説かれたのである。この『法性(ほっしょう)』とは、不変不易であり、無作非作であり、無住不住であり、一切が平等であり、等しいものも平等であり、等しくないものもまた平等であり、無思無縁にして正しい決定を得るものであり、一切の法において区別も差異もなく、性相が無碍(妨げがない)であること虚空のごときものである。これを法性と名付ける。もしこの法性に依止する者があれば、決して一相の法から離れることはなく、この門に入る者は一切の法が同一の法性であると観じる。それゆえに、一切の法に依って人に依らないと説くのである。舎利弗よ、これを菩薩摩訶薩の四依の無尽と名付ける。」この『法性』とは、不変不易であり、無作非作であり、無住不住であり、一切が平等であり、等しいものも平等であり、等しくないものもまた平等であり、無思無縁にして正しい決定を得るものであり、一切の法において区別も差異もなく、性相が無碍であること虚空のごときものです。これを法性と名付けます。もしこの法性に依止する者があれば、決して一相の法から離れることはなく、この門に入る者は一切の法が同一の法性であると観じます。これが真実の義です。すでに真実の義を信受したのなら、どうしてまた補特伽羅(人)に依る必要があるでしょうか?
 
『宗鏡録(すぎょうろく)』には、「過去・未来・現在の三世の境界(対象)は、もともと第八阿頼耶識(あらやしき)の親相分(直接の認識対象)であり、ただ本識が変現したものである」とあります。しかし俗人は、識の見分(認識する主体)に執着して「我愛」とし、識の相分(認識される客体)に執着して「幻有(実体のあるもの)」とします。そのため聖なる龍樹菩薩は、その著『大智度論』において、阿毘曇(アビダルマ)を修める者が常に一切の法を有(実在)であると執着して対象化することや、空性を誤解した者が一切の法はすべて空であるという宗に誤って執着し、因果もまた空であると誤って執着すること(これを悪取空宗と言います)を明示されました。このため、三転法輪は我が世尊が妙なる道を再び演説されたものであり、一切は唯識(ただ心が作り出したもの)だからです。初めの阿含では、五蘊が「無常、苦、空、無我」であると観じました。次の大乗方等経典では、一切の法はすべて縁起であり、「空でもあり有でもある、空でもなく有でもない」、すべての法には自性がないという義を観じました。そして最後に最も優れた妙道である唯識の正理を提唱し、真っ直ぐに「真空妙有」へと向かいました。世俗諦(相対的な真理)においては万法が唯識であり、ただ心が現したものであると契証します。しかし、真の勝義諦(究極の真理)においては心や言葉の働きはすべて断絶し、「真でもあり俗でもある、真でもなく俗でもない」と双唱し、有為(作られたもの)にも無為(作られていないもの)にも陥らない円成実性(えんじょうじっしょう)に至ります。円成実性とは何でしょうか?一切の法の、法性(本性)が本来清浄であるという義だからです。それゆえ、名言(言葉や概念)はただ顕境(境界を顕すもの)と表義(意味を表すもの)の二類のみであり、法は言葉の解釈に陥らないため文字によって記述や記録ができ、性は一切の法に自性がないという義であるため修行によって得られるものではなく、顕れ出た勝義中の勝義諦であり、これが一真法界(絶対の真理の世界)なのです。
 
『大乗密厳経』は、『大樹緊那羅王所問経』や『華厳経』などの諸経の奥義を究めた宗義であり、一般の凡夫や愚者が契機を得て、証得し、理解できるものではありません。現在『瑜伽師地論』が演説する菩薩の真実義は、明示的に『密厳経』の大義を語ってはいませんが、菩薩乗を修学する者は、このように教えに従って奉行し、聴聞、思惟、修学を通じて漸次的に証践(証明と実践)すべきです。『大宝積経』もまた実証の妙なる趣きを演説していますが、私たち凡夫は二障(煩悩障と所知障)に覆い閉ざされ、無始(始まりのない過去)からの無明の薫習が非常に長いため、無始の劫より以来、人間として生まれてきた者は皆、色身(肉体)、族姓(家柄)、財位(財産と地位)、眷属(家族)を「我」や「我がもの(我所)」とし、それらを真の我、実在の我、第一義の我、私が所有するものだと誤って執着しています。この受用される我や我所の見分や相分は、本来諸法の因縁が和合した異熟の果報が変現したものであり、それは幻化であり、無常であり、苦であり、無我である「自性がないもの」であり、純粋な異生(凡夫)の愚者が「遍計所執性(誤って実在すると執着する性質)」によるものであることを全く知らないのです。慈恩宗の窺基(きき)大師は『成唯識論述記』の中でこう述べています。「本頌が中道の義を成すことを著すにあたり、『唯』とは簡別して外境が無いことを遮し(退け)、『識』とは能く了知する内なる心が存在することを示す。識の体はすなわち持業釈(じごうしゃく)であり、識の性も識の相もみな心から離れない。心所(心の働き)も心王(心の主体)も識を主とするため、心に帰し相を泯(ほろ)ぼして総じて唯識と言う。ただ境(対象)が存在することを遮すのみであり、有に執着する者はその真を失う。識とは心が空であることを簡別するものであり、空に滞る者はその実に背く。ゆえに、この空と有に暗く、二辺(極端な見方)に長く溺れる状態から、あの有と空を悟り、高く中道を歩むのである。」『楞伽経』の五種姓、『大般若経』の四種姓は、菩薩の本性や種姓を明らかにし、あるいは阿羅漢の位が異生(凡夫)の性障を捨てることを解き明かすことにその意義があります。
 
『摩訶般若波羅蜜経』では、薩陀波崙(さっだはろん / サダープララーパ)菩薩が法を求め、般若波羅蜜を満足させるために、自らの身を布施するなどの行いをしたことが明かされています。経にはこうあります:「薩陀波崙は答えて言った。『(自らの身を)バラモンに売るのは、般若波羅蜜のために、曇無竭(どんむかつ / ダルモードガタ)菩薩を供養するためである。』長者の娘は言った。『善男子よ!このように身を売り、自ら心、髄、血を出して曇無竭菩薩を供養しようとしているが、どのような功徳の利益が得られるのか?』
 
「薩陀波崙は答えて言った。『善女人よ!その人は善く般若波羅蜜および方便の力を学び、その人は私のために菩薩がなすべきこと、菩薩が行くべき道を説いてくれるだろう。私はこの法を学び、この道を学び、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい:無上正等正覚)を得た時、衆生のために依り所となり、まさに金色の身、三十二相、八十随形好、一丈の光、無量の明、大慈・大悲・大喜・大捨、四無所畏、仏の十力、四無碍智、十八不共法、六神通、そして不可思議で清浄な戒・禅定・智慧を得て、阿耨多羅三藐三菩提を得るだろう。諸法の中において無碍の一切の智見を得て、無上の法宝をもって一切の衆生に分布して与えるのである。このような諸々の功徳の利益を、私は彼から得るであろう。』
 
「その時、長者の娘はこの最上の素晴らしい仏法を聞き、大いに歓喜し、心に驚きを覚え毛が逆立ち、薩陀波崙菩薩に言った。『善男子よ!甚だ希有なことです。あなたの仰ることは微妙(みみょう)で出会い難いものです。それぞれの一つの功徳の法のためだけでも、ガンジス川の砂の数ほどの身を捨てるべきです。なぜなら、あなたの仰ることは甚だ大きく微妙だからです。善男子よ!あなたが今必要としているものを、すべてあなたに与えましょう。金、銀、真珠、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、琥珀、珊瑚などの諸々の珍宝の品々、そして華、香、瓔珞(ようらく)、塗香、焼香、幡、蓋、衣服、伎楽などの供養の具をもって、般若波羅蜜および曇無竭菩薩を供養しなさい。善男子よ!自らその身を苦しめないでください。私もまた、曇無竭菩薩の所へ行き、あなたと共に諸々の善根を植えたいと思います。あなたが言ったような、あの微妙な法を得るためです。』」
 
薩陀波崙菩薩でさえこのようであったのに、我ら愚痴の凡夫がどうして不精進の心や、無慚愧(恥を知らない)の心を生じることができましょうか。後学を啓発し、三時教の意義の礎を築くためです。「菩薩蔵」の義とは、菩薩の対法論におけるマートリカー(本母)であり、仏事を荘厳する意義を持っています。しかし、勝義(究極の真理)においては、言葉を離れ、相(すがた)を去って性を顕す真如の法性のみです。今日、文字般若をもって諸法界に書き記し、諸仏の奥底に契入します。菩薩が内明、因明、医方明、工巧明、さらには声明といった五明(五つの学問)を修学する意義は、自利利他(自他ともに利益する)にあり、諸法の縁起を諦観(明らかに観察)し、善巧と方便をもって異生(凡夫)でありながら菩薩の種姓を備える者を導き、仏の知見を開き、生死の流転という大海を逆流することにあります。菩薩の利行(他者を利益する行い)の諸々の事柄を広く引用しますが、実のところ衆生を度尽くす(すべて救い切る)荘厳の事柄というものは実体として存在しません。なぜなら、一切の法には自性がなく、依他起性は清浄であり円成実性でもあり、円成実性はただ真如の勝義だからです。これを奉行する者は、この入門の論述に依拠して、三転法輪の修道の次第や菩提の開演を導く手引きとしてください。必ずや菩薩の種姓である悲願がすべてを覆い、利行(利益する行い)と同事(共に歩むこと)をもたらすでしょう。この菩薩の真実の義を共に修め、このような因、果、本、末、究極などの三自性、三無性の義に契証することを願っています。
 

願景(ビジョン):
経論に対して再度の句読点整理(断句)、編集・校正、および新式句読記号の導入を推進し、学習者が中観、唯識、アビダルマの経論を学びやすくすることを目指します。これにより、仏典を学ぶ法友たちが、いつでもどこでもスマートフォン、タブレット、パソコンを通じて読み、ノートを取るなどの要点学習ができるようになります。


計画(プロジェクト):

現在、本会のプロジェクト責任者である王穆提居士は、『玄奘三蔵訳撰全輯』七十六部、『天台智者大師全集』二十七部、『三論吉蔵大師合集』十七部、『成唯識論述記』、『成唯識論述記集成編対読』、『一身六足論』、『大乗仏教修証止観経論合輯』、『大乗唯識宗修証止観経論合輯』、『漢語仏教修証止観アビダルマ論合輯』の編校または執筆を行っています。さらに、漢語仏教における唯識、中観、アビダルマなどの仏教経論とその注釈、随筆、問答の著述は、すでに三百種類以上の法宝に達しています。

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