日本三論宗 玄叡《大乘三論大義鈔》疏文斷句
編輯說明:
一、本論為日本平安時期 玄叡律師(げんえい、生年不詳 - 日本承和7年(840年))主要以三論宗立場融合並辯駁當時日本法相宗、天台宗、真言宗、華嚴宗之論疏。
二、《大乘三論大義鈔》編輯經論底本詳目參酌:
(一)日本《大正新修大藏經》,《續諸宗部一》,第70冊,2296經,119頁,4卷。
(二)《大日本佛敎全書》,第75卷(冊),第一至一零八頁,共四卷。(日本佛書刊行會編篡,大正二年發行)。
(三)日本佛教大系《大乘三論大義鈔》。(日本佛教大系刊行會編,日本中山書房出版,昭和53年)。
三、疏文斷句的部份,為每句段落後再一一分段出來,以每段、每行都再細分出來,並整理出本論之問答。
四、問答句若缺問之字,於問句之前以(問)添加於前。若缺答字,則於答句之前以(答)添加於前,若整句缺,則以(缺問)、(缺答)說明。
五、於問句之部分,以加粗字體顯示,方便學人學習。
六、於問句之句首上方加入阿拉伯數字與「.」符號,以標明第幾個問句作為編號。如:001.問,即表示為第一個問句。
七、整部論雖僅有四卷,然本論問答頗多,於今整理出,總共有546個問答,另外,其他立量等論辯之答,則不加入編號。
八、本論關於《楞嚴經》真偽之問答於所整理出之427-433問中。
九、本論關於《成實論》是否為大小乘二空差別義之論述問答在015-018.問中。
〈大乘三論大義鈔略論〉
日本三論宗與玄叡律師傳略
《大乘三論大義鈔》為日本 玄叡律師主要以三論宗立場融合並辯駁當時日本南都六宗的法相宗、天台宗、真言宗、華嚴宗之論疏。總共有546個問答,大抵不離其所立二十類義之諍論,諍者,以直言糾正、規勸。如《新唐書》卷一六四〈崔玄亮傳〉:「玄亮率諫官叩延英苦諍,反復數百言。」並非是一般人所認知爭吵之意義。玄叡律師於本論說:「尋夫諍論起,自執著於自他宗,而生疑心。何因諍論?良由各於自義生執著心,互於他宗起僻謬想,諍論始起,孰諍論,無此意乎?夫執著也,愛見之根,愛見卽是衆苦之本,爲是義故,不可諍論。」。
二十類者:
一、八不義。
二、二諦義。
三、二智義。
四、方言義。
五、佛性義。
六、不二義。
七、容入義。
八、一乘義。
九、教迹義。
十、三身義。
十一、空有諍論。
十二、常無常諍論。
十三、五性爾非爾諍論。
十四、有性無性諍論。
十五、定不定性諍論。
十六、變易生死諍論。
十七、三一權實諍論。
十八、三四車諍論。
十九、教時諍論。
二十、說不說諍論。
日本西大寺,每月舉辦誦經會連續三天,七百五十年未有斷絕。而玄叡律師則是西大寺於平安時代前期的三論宗宗匠。其著作《大乘三論大義鈔》在當時也是「天長六本宗書」(亦為「天長敕撰六本宗書」)之一。
天長7年(西元830年)所彙整撰寫的「天長六本宗書」(亦為「天長敕撰六本宗書」,實際上有七本論書,只不過以南都六宗為主,故稱六本宗書:
一、真言宗 空海《祕密曼荼羅十住心論》十卷,
二、真言宗 空海《祕藏寶鑰》一卷,
三、天台宗 義真《天台法華宗義集》一卷,
寺、法相宗 護命《大乘法相研神章》五卷,
五、三論宗 玄叡《大乘三論大義鈔》四卷,
六、華嚴宗 普機《華嚴一乘開心論》六卷,
七、律宗 豐安《戒律傳來記》三卷。
曾經為日本南都七大寺之一的西大寺,如今,則只需要搭乘地鐵近鐵奈良線到達大和西大寺站,並且步行三到五分鐘即可到達。倘若是從京都出發的話,約莫僅只需三十至四十分鐘內即可到達該站。而現今之西大寺業已成為日本真言律宗之總本山,真言律宗由興正菩薩‧叡尊律師所創。
按照佛教正史,關於日本三論宗與玄叡律師約莫有幾點:
一、《三國佛法傳通緣起》卷2:「弘仁聖代玄叡律師製三論大義抄四卷,奉勑詔造之。法隆學問寺,昔元弘三論宗,布貴道詮及貞玄律師等,即法隆寺三論宗也。近代弘法相宗,從昔習學太子三經疏,近代已來昌致學業,本元興寺本學三論,遷彼寺於平城都已來,專弘三論。」
二、《朝鮮佛教通史》卷3:「【三論宗】推古天皇三十三年,高麗(謂高句麗)沙門 惠觀,至日本,弘三論宗於元興寺,是日本開宗之始。又三論宗,自唐傳至,凡有三次:一曰惠觀僧正傳。二曰智藏僧正傳。智藏是惠觀之法孫,越海入唐,傳受三論,史失其年代。三曰道慈律師傳。道慈,智藏之弟子也,文武天皇大寶元年,入唐總傳六宗,以三論為本宗。歸朝之後,於大安寺弘通之。於是名哲繼踵,西大寺玄叡律師,法隆寺道詮律師等,最其翹楚。至中古,唯流傳東大寺餘皆滅,今則全無矣。」
三、《大日本佛教全書》第一百十一卷《三論祖師傳集》下 所引「三論師資傳」:
「人王,第三十代磯島金刺宮欽明天皇,治天下天國押開廣莚天皇之代百濟國獻佛法,時爾以後經三十七代過年九十餘歳,難有佛法未有弘宣,第三十七代難波豊前宮孝徳天皇治天下天萬豊日天王,乃請元興寺僧高麗惠觀法師今講三論。其講了日,天皇卽拜任以僧正,是則日本僧正第二。同寺三論宗觀勒僧正第一矣。凡於此朝佛住持始由先任僧正惠觀,從此以後後福亮法師等九僧正,皆此元興寺三論宗也。神泰法師相次傳之,宣融法師、玄耀法師、西大寺玄叡律師、元興寺道唱律師,皆其裔也。次人唐學生吳智藏僧正,亦此元興。業渉内外,學通三藏,於法隆寺傳三論宗。仙光院智光法師、禮光法師,相受傳之。靈叡法師、品惠法師,神護寺一登法師受仙光。東大寺漸安法師,玄覺法師,元興寺藥寶法師,同受叡公。隆應法師、願暁律師,乃其後也。次遣唐留學道慈律師,學緣六宗三論爲要。本是元興寺自唐還來建大安寺興三論旨,慶俊大僧都,善議法師,受律師敎。勤操僧正,安澄法師受善議大徳,西大寺實敏大僧都者,澄之入室也。次桂畏八島聖皇時,降綸旨玄覺法師遣唐請益,法師含忠訪道歸朝,傳燈今吾三代之祖師也。自古于今遍於諸寺,傳者旣多,思繁不具。〈已上〉」
四、根據日本《國史大辭典》(略翻:王穆提):
三論宗,佛教的一個教派,日本南都六宗、中國十三宗之一。他立宗於印度龍樹菩薩的《中論》、《十二門論》及其門徒提婆,的《百論》三部論著,因此稱為三論宗。在印度叫中觀宗。宗義是以佛教的根本哲學——智慧、諸行無常為代表的空義哲學為基礎的。其他宗派宣揚經文價值的高低,而這個宗派在引導人們的方法上雖然在一切經文上有所區別,但本來是為了擺脫執著,因此具有同等價值,特別是強調這個世界的現象本身沒有實體,即是空的這一點。
在印度,《百論》、《十二門論》在四世紀中葉開始盛行,在五世紀初由鳩摩羅什翻譯成漢語,並對其進行了研究。後經道生、雲濟、法朗,法朗門下出隋朝嘉祥大師吉蔵。給予三論宗這一宗的組織體系的是吉蔵,以吉蔵為宗祖。吉蔵,認為釋迦牟尼教理是唯一理的顯揚,以二諦八不之理為終極思想,以破邪即顯正即消除諸宗之偏執,顯中道之理為宗旨。
日本的傳入始於吉蔵的弟子、聖德太子的師傅高麗僧惠灌。惠灌在推古天皇三十三年(西元625年)傳三論,住在飛鳥元興寺,後來搬到河內國井上寺,大化二年(西元646年)在宮中講三論。入唐求法僧智藏自惠灌法脈而出,留居法隆寺教導學生而興盛,後稱此法流為元興寺流。
另一方面,向智藏學習三論宗教學的道慈,於大寶二年(西元702年)入唐留學,從吉蔵的法孫元康那裡學習三論宗,並在平城右京的大安寺創建佛寺,天平九年(西元737年)四月創立了大般若會,宣傳三論宗。在這一法流中出現了善議、安澄、勤操等學僧,這一流派被稱為大安寺流派。
與法相宗一起形成了日本古代國家佛教的根基。天平十九年(西元729年)二月的《法隆寺伽藍起並流記資財帳》、《大安寺伽藍緣起並流記資財帳》出現三論衆與別三論衆的名稱,同年的《元興寺伽藍緣起並流記資財帳》及延歷十三年(西元794年)五月的《弘福寺文書目錄》中可以看到三論宗、別三論宗供田的名稱,至少承認有兩個學派的存在是基於法脈所傳和教理的不同而推定的。
三論宗名稱初見於《正倉院文書》,天平勝寶四年(西元752年)閏三月十八日有關「六宗廚子」與著色有關的《充廚子彩色冊》 ,第三個廚子是三論宗。同年(西元752年)八月二十四日的東大寺三論宗牒亦有記載,前年五月的《經疏出納帳》上寫著「六宗佈施法」 ,應該說三論宗已包括在六宗之內,學派成立時間為天平勝寶三年,在東大寺上,以大佛開眼供奉會為目標而成立的。
被稱為「無相之宗教」的本宗,似乎在法相宗之教學推動下導致學徒減少而衰微。延歷十七年(西元798年)、二十一年(西元802年)、二十二年(西元803年)等一再計劃三論宗復興,到大同元年(西元806)正月,以太政官符五宗年度者十二人中,三論宗定為三人,其中包括一名成實宗專業僧侶;成實宗由於教理的相似而成為三論宗的附宗。
弘仁四年(西元813年)正月御齋會上,勤操宣揚「三論宗是祖君之宗」,宣揚教理西大寺玄叡著有《三論大義鈔》 ,願曉還著有《金光明最勝王經玄樞》的著作。他的門下出現了聖寶,在東大寺內建立了東南院,成為東南院的三論宗本所, 隨後有觀理等人輩出。 延久三年(西元1071年)宣旨吸收元興、大安二寺的三論宗,此後,出現了覺樹、永觀、珍海等人,鎌倉時代出現了聖守,室町時代中期出現了英憲、英訓的學匠,但後來逐漸衰落,直到江戶時代末期才衰亡。
[參考文獻]
『三論祖師伝集』(『大日本仏教全書』)、『三国仏法伝通縁起』(同)、井上光貞「南都六宗の成立」(『日本古代思想史の研究』所収)(堀池 春峰)
《楞嚴經》真偽
另外,本論也特地為《楞嚴經》真偽作論證辯駁。可參酌本論427-433的問答。主要還是以淸辨菩薩的立量去證明《楞嚴經》為真,另外也從日本諸師的證論去談及。今人談偽,如考《智論》、《瑜伽》、《華嚴》、《寶積》、《般若》、《淨土》諸經、《大集》乃至漢語《阿毗達摩》皆偽。殊不知佛教三藏本為多人篡集而成,本非一人獨書而成,如《大毗婆沙》為五百阿羅漢所集,然據南傳彼等不許,又成偽論。語系傳承不同,如何成證?又依靠口傳者,是否又如巷議街談?彼等人多半如是思。
又考今存梵文本作依憑,然文革燒盡諸寺所藏梵文本,洛陽白馬一寺燒盡多達二萬餘卷梵文本,如何驗之?今之尼泊爾尚存十餘萬卷梵文本待翻,焉能等待時機檢視?而西域之今中亞諸國是否有存梵文本於地下?只能等待後人發掘,如是比量得知,僅只考今現存之梵文本作為依據,未免過於籠統與武斷,數據未真故,真即當一切顯方必真。
玄叡法師於本論中結說:「拙弊帚爲珍之比,謬起僞造之言,愛燕石藏匱之流,徒傳無間之語,結虛業於當時流醜聲於後代,謗法之因旣就,無間之報盍感焉,於乎可傷哉?若人之也。」確實值得學人思考。
另,考真偽不如考是否合乎三法印、四法印義,只要契合三法印、四法印義者,皆可當為佛教三藏義。若不如是,則一切三藏皆後世多人編輯,如何得知真有佛?真有菩薩義?如此考據之心,而未能生仰信,以此類之心多考則必失敬仰與信心,久之,則一切三藏必定視為世俗小說之無義語,何以故?君見往生淨土者現前於君面前否?君自不見,想當然耳日後必會退轉,希求有相故,既自希冀有相故求一切考據考得出君之疑而印證,不禁大喜,大喜之後,則不再於此路上追求真理。
如說「千年已前,空有諍競人,其數小;千年已後,其類多故。」如考亦此義。
深密一乘為眞實顯了一乘
已故之印順法師誤解日本三論宗玄叡,如印順法師《華雨香雲》卷3說:「日本之三論作家,莫如玄叡與珍海。玄叡作《三論大義鈔》,於空有之辨,頗致殷勤,持論精而引證翔實,不可不讀之書也。然以《解深密經》為密意說一乘,殊失嘉祥大師之旨。」
然考玄叡《大乘三論大義鈔》內文(《大日本佛敎全書》第075冊《大乗三論大義鈔 三論玄疏文義要》,98頁上方),玄叡法師是這麼說的:
「問:解深密所說一乘,與法華經所明一乘,同異若爲?
答:異也。深密一乘,此是眞實顯了一乘。法華一乘,卽是密意不了一乘。
問:顯密之趣,情所未曉,請爲陳述。令莫凝滯?
答:解深密經,爲諸利根大菩薩等。顯了演說三乘實有,所趣眞如,無別異故。說爲一乘,故此是究竟顯了乘。
若法華經,爲欲誘引鈍根聲聞,實有三乘而以方便,密說言唯有一乘無有二,故是密意不了一乘。」
玄叡律師於本論〈三一權實諍論第七〉第512至514問之中,認為「深密一乘,此是眞實顯了一乘。法華一乘,卽是密意不了一乘。」也就是彼等是承許《解深密經》為「眞實顯了一乘」,而非印順法師所說的「密意說一乘」,畢竟眞實顯了一乘與密意說一乘不同。期盼日後印順法師《華雨香雲》能夠重新校定出版。
另外,玄叡律師於此書中不僅引用三論法義,更多用法相宗問答方式以作種種破難。彼師應當是會通中觀、唯識而不僅只重三論的。而玄叡師對於《楞嚴經》的會通,採取模式乃根據清辨立量作種種證明該經為真經,這也是另外一種會通的模式。
成實論為聲聞乘
本論第015至018問主要在說明《成實論》為什麼屬於聲聞乘而非大乘,特別是第016問舉出大、小乘二空義的差異,如說:
同辨二空,二空不同,略有四種:
一、小乘折法空,大乘本性空。
二、小乘但明三界之内人法二空,空義則短。大乘通明三界内外人法二空,空義乃長。
三、彼小乘人,但說於空,未說不空。大乘明空,亦說不空。
四、小乘但空,但住空故。大乘名爲不可得空,空亦空故。
故知成實,辨於二空。而空義別,故分大、小。
結論:
《大乘三論大義鈔》除以三論宗法義論述各宗差異之外,玄叡律師也會通諸宗之義。實際上一千多年以來諸多諍論,不論是三性、三無性、《楞嚴經》是否為偽論?《成實論》是否為大乘?種子有無、法身與三身差別、有佛種性無佛種性、各宗對於佛性義之定義、世俗諦與勝義諦、一乘與三乘義、甚至是龍樹《中觀》八不義皆是對於學人來說,本論能夠建立以三論宗為主之中觀學法義並且逐漸釐清各宗差異的論述。
2021年8月16日
於台灣菩薩藏
《大乗三論大義鈔》略論:
日本三論宗と玄叡律師の伝略
『大乗三論大義鈔』は日本の玄叡律師が主に三論宗の立場から、当時の日本南都六宗である法相宗・天台宗・真言宗・華厳宗の論疏を融合し、弁駁したものである。全546問答に及び、大抵は彼が立てた二十類義の諍論を離れない。ここでの「諍」とは、直言による糾正や規勧を指し、『新唐書』巻164〈崔玄亮伝〉にある「玄亮は諫官を率いて延英に苦諍し、反復して数百言を述べた」との記述のように、一般的な争いの意味ではない。玄叡律師は本論中で「諍論は自己他宗への執着から疑心が生じることに起因する。各自が自義に執着し他宗に対して偏った誤解を起こすため、諍論が始まる。諍論とはそういう意味ではないか。執着は愛見の根本であり、愛見は衆苦の本である。よってこれは議論すべきでない」と述べている。
二十類義は以下の通りである:
一、八不義
二、二諦義
三、二智義
四、方言義
五、仏性義
六、不二義
七、容入義
八、一乗義
九、教跡義
十、三身義
十一、空有諍論
十二、常無常諍論
十三、五性是非諍論
十四、有性無性諍論
十五、定不定性諍論
十六、変易生死諍論
十七、三一権実諍論
十八、三四車諍論
十九、教時諍論
二十、説不説諍論
日本の西大寺では毎月三日間の読経会を七百五十年途絶えることなく開催している。玄叡律師は平安時代前期の西大寺における三論宗の宗匠であった。彼の著作『大乗三論大義鈔』は当時、「天長六本宗書」(別名「天長勅撰六本宗書」)の一つに数えられている。
天長7年(西暦830年)に編纂された「天長六本宗書」(実際には七巻あるが、南都六宗を主体とするため六本宗書と呼ばれる):
一、真言宗 空海『秘密曼荼羅十住心論』十巻
二、真言宗 空海『秘蔵宝鑰』一巻
三、天台宗 義真『天台法華宗義集』一巻
四、法相宗 護命『大乗法相研神章』五巻
五、三論宗 玄叡『大乗三論大義鈔』四巻
六、華厳宗 普機『華厳一乗開心論』六巻
七、律宗 豊安『戒律伝来記』三巻
かつて日本南都七大寺の一つであった西大寺は、現在では近鉄奈良線の大和西大寺駅から徒歩3〜5分で到着できる。京都からの所要時間は約30〜40分ほどである。現代の西大寺は真言律宗の総本山であり、真言律宗は興正菩薩叡尊律師によって創始された。
仏教正史に基づく日本三論宗と玄叡律師についての要点は以下の通りである:
一、『三国仏法伝通縁起』巻2:「弘仁聖代、玄叡律師は三論大義抄四巻を制作し、勅詔を奉じて造った。法隆学問寺はもと元弘三論宗、布貴道詮および貞玄律師らが所属し、法隆寺の三論宗である。近代の弘法相宗は昔より太子三経疏を学び、元興寺本学三論を平城都に移し、三論を専ら弘めている。」
二、『朝鮮仏教通史』巻3:「【三論宗】推古天皇33年、高句麗の沙門恵観が日本に至り、元興寺にて三論宗を弘めたのが日本の開宗である。唐から三論宗が伝わったのは三度あり、一は恵観僧正による伝承、二は智蔵僧正による伝承(智蔵は恵観の法孫で唐に渡り三論を受け継ぐ)、三は道慈律師による伝承である。道慈は智蔵の弟子で、文武天皇大宝元年に入唐して六宗を総伝し、三論を本宗とした。帰朝後は大安寺で弘通した。名哲、西大寺玄叡律師、法隆寺道詮律師らがその俊秀である。中古には東大寺のみが伝わり、その他は滅び、現在は全く存在しない。」
三、『大日本仏教全書』第111巻『三論祖師伝集』下所収「三論師資伝」:
(略。内容は天皇代の仏法伝来と元興寺三論宗の系譜について詳細に述べる)
四、日本『国史大辞典』によると、三論宗は仏教の一派であり、日本南都六宗、中国十三宗の一つである。インドの龍樹菩薩の『中論』・『十二門論』とその弟子提婆の『百論』の三部の論著に基づくため三論宗と呼ばれる。インドでは中観宗と称され、空義哲学を基盤とし、智慧と諸行無常を根本とする。経典の価値を高低で分ける他宗に対し、三論宗は執着から離れることを目的にし、特にこの世の現象が空であることを強調する。
三論宗は4世紀中頃に『百論』『十二門論』が盛行し、5世紀初に鳩摩羅什により漢訳され研究された。後に道生・雲済・法朗らが伝え、隋朝の嘉祥大師吉蔵が三論宗の体系化を行い、宗祖とされる。吉蔵は釈迦の教理を唯一の理として掲げ、二諦八不を最高思想とし、偏執の破邪顕正を宗旨とした。
日本への伝来は吉蔵の弟子で聖徳太子の師である高麗僧恵灌に始まる。推古天皇33年(625年)に三論を伝え、飛鳥元興寺に住し、後に河内国井上寺へ移った。大化2年(646年)に宮中で三論を講じた。入唐して求法した僧智蔵は恵灌の法脈から出て、法隆寺に留まり教えを広め、元興寺流と呼ばれた。
一方、智蔵に学んだ道慈は大宝2年(702年)に入唐し、吉蔵の法孫元康に三論を学び、平城右京の大安寺を建立。天平9年(737年)4月に大般若会を創設し三論宗を宣伝した。この流派から善議・安澄・勤操らが輩出し、大安寺流派と呼ばれる。
法相宗と共に日本古代国家仏教の基礎を築いた。天平19年(729年)2月の伽藍起資財帳などには三論衆と別三論衆の名が見え、少なくとも二つの学派の存在が法脈と教理の違いによって推定される。
三論宗の名称は正倉院文書の天平勝宝4年(752年)に初めて現れ、六宗厨子に関する彩色冊、東大寺三論宗牒、六宗布施法の記録に含まれている。学派成立は天平勝宝3年頃とされ、大仏開眼供養を目標に東大寺で設立された。
無相の宗教と称される本宗は、法相宗の教義推進によって衰退した。延暦17年(798年)、21年(802年)、22年(803年)に再興計画があり、大同元年(806年)には太政官が五宗12人の年度者中三論宗を三人に定め、その中には成実宗専門僧侶も含まれた。成実宗は教理の類似から三論宗の付宗とされた。
弘仁4年(813年)1月の御斎会では勤操が「三論宗は祖君の宗」と宣揚し、西大寺玄叡著『三論大義鈔』、願暁著『金光明最勝王経玄枢』を説いた。彼の門下に聖宝が現れ、東大寺に東南院を建立し、同院を三論宗本所とした。延久3年(1071年)には元興寺・大安寺の三論宗が吸収され、その後覚樹・永観・珍海らが現れ、鎌倉時代には聖守、室町中期には英憲・英訓の学匠が輩出したが、次第に衰退し江戸時代末期に絶えた。
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【参考文献】
『三論祖師伝集』(『大日本仏教全書』)
『三国仏法伝通縁起』(同)
井上光貞「南都六宗の成立」(『日本古代思想史の研究』所収)
(堀池春峰)
『楞嚴経』の真偽について
なお、本論では特に『楞嚴経』の真偽に関して論証と弁駁を行っている。詳細は本論の第427〜433問答を参照されたい。主に清辨菩薩の立量を以て『楞嚴経』の真実性を証明し、また日本の諸師の証論にも言及している。現代において偽書とされるものには、『智論』『瑜伽』『華厳』『宝積』『般若』『浄土』などの諸経、『大集』やさらには漢語の『阿毘達磨』までもが偽とされている。しかし仏教の三蔵はもともと多くの人によって編纂されたものであり、一人の独書ではない。例えば『大毘婆沙』は五百人の阿羅漢によって集められたが、南伝ではそれらを認めず偽書とする説もある。語系や伝承が異なれば、どのように真偽を証明できるのか。また口伝に依る場合、果たしてそれは町の噂話のようなものではないかと考える者が多い。
さらに現存する梵文資料に依拠しようとしても、文化大革命により各寺院の梵文典籍は焼失し、洛陽の白馬寺では2万余巻の梵文が焼かれた。これをどう検証できるのか。現在のネパールには10万巻以上の梵文典籍が翻訳待ちのまま保存されているが、すぐに検証できる状況にはない。西域の中アジア諸国において地下に梵文典籍が保存されている可能性もあり、後世の発掘を待つしかない。したがって、現存の梵文資料のみを根拠にすることはあまりにも大雑把で断定的すぎる。資料の真実性が確かでなければ、真実であるならば必ずすべての正しい形が現れるはずである。
玄叡法師は本論において次のように結んでいる。「拙い箒を宝とするのは誤りであり、偽造の言を起こすのは妄執である。燕石の蔵匿を愛し、徒らに無間の語を伝えることは、当時に虚業を結び、後世に醜声を流布することであり、法を誹謗する因となり、無間の報いを招くのは如何ともしがたいことである。これは人の仕業である。」これは確かに学ぶ者が深く考えるに値する言葉である。
また、真偽を考えるよりもむしろ、三法印・四法印の義に合致しているかを問うべきである。三法印・四法印の義に適合するものはすべて仏教三蔵の義として受け入れられるべきである。もしそうでなければ、三蔵は後世多くの人によって編纂されたものに過ぎず、どうして真に仏が存在し、菩薩の義があると知り得るだろうか。このような考証の心で信仰を生じないならば、多くの考証は必ず敬仰と信心を失わせ、やがてすべての三蔵は世俗の作り話の無意味な言葉としてみなされるだろう。なぜならば、往生浄土の者が現に己の前に現れるかどうかを見なければ、やがて必ず信仰は退転するからである。相(かたち)を希求し、疑問を考証によって印証し喜び、それによってこの道の真理を追求しなくなるのだ。
「千年前には空有の争いに携わる者は少数であったが、千年後にはその類は多い」とも言われている。これもまたその意味に鑑みるべきであろう。
深密一乗は真実に顕れた一乗である
故・印順法師は日本三論宗の玄叡を誤解している。印順法師の『華雨香雲』巻三にはこうある:「日本の三論作家では玄叡と珍海に及ぶ者はない。玄叡は『三論大義鈔』を著し、空有の弁に非常に勤勉で、論旨は精緻で引証も詳しく、必読の書である。しかし『解深密経』を密意の一乗説とみなすのは、嘉祥大師の旨を誤っている。」
しかし、玄叡の『大乗三論大義鈔』(『大日本仏教全書』第075冊『大乗三論大義鈔 三論玄疏文義要』98ページ上方)内文を検討すると、玄叡法師はこう述べている:
「問:解深密が説く一乗は、法華経が明らかにする一乗と同じか異なるか?
答:異なる。深密一乗はこれが真実に顕れた一乗である。法華の一乗は密意の未了の一乗である。
問:顕密の趣旨が理解できない。説明してほしい。誤解が生じないように。
答:解深密経は諸利根大菩薩のために三乗の実有を顕演し、真如を趣旨としており、別異がない。これを一乗と説くゆえに、これは究竟に顕れた乗である。
法華経は鈍根の声聞を誘引するために、三乗の実有を方便として説き、密説で唯一の一乗を説くので、これは密意の未了の一乗である。」
玄叡律師は本論〈三一権実諍論第七〉問512~514の中で、「深密一乗は真実に顕れた一乗であり、法華一乗は密意の未了の一乗である」としている。すなわち彼らは『解深密経』を「真実に顕れた一乗」と認めており、印順法師が言う「密意の一乗」とは異なる。今後、印順法師の『華雨香雲』が再校訂され出版されることを望む。
また、玄叡律師は本書において三論法義の引用に留まらず、法相宗の問答形式を多用して種々の破難を行っている。彼は中観・唯識を通暁し、単に三論に偏らない師であると推察される。さらに玄叡師は『楞嚴経』に対して清辨の立量を根拠に真経であることを種々証明するという会通の形式を取っており、これもまた別の会通の方式である。
成実論は声聞乗である
本論第015問から018問は主に『成実論』がなぜ大乗ではなく声聞乗に属するのかを説明している。特に第016問では大乗・小乗の二つの空義の差異を挙げている。例えば以下のように述べている:
二つの空を辨じるが、二空は異なり、大まかに四種類ある:
一、小乗は法の空を折伏し、大乗は本性の空である。
二、小乗は三界の内にある人法の二空のみを明らかにし、その空義は短い。大乗は三界の内外の人法の二空を通明し、その空義は長い。
三、小乗の人は空についてのみ語り、不空については語らない。大乗は空を明らかにし、不空も説く。
四、小乗はただ空であるが、空に住する故である。大乗は不可得の空と名付け、空もまた空である故である。
以上より、『成実論』は二空を辨じるが、空義の別により大乗と小乗に分かれることがわかる。
結論:
『大乗三論大義鈔』は三論宗の法義によって各宗の差異を論述するだけでなく、玄叡律師は諸宗の義も会通している。実際に千年以上にわたり多くの争論があったが、三性・三無性、 『楞嚴経』の偽経論争、『成実論』が大乗か否か、種子の有無、法身と三身の差異、仏種性の有無、各宗の仏性義の定義、世俗諦と勝義諦、一乗と三乗の義、さらには龍樹の『中観』における八不義など、学び手にとって本論は三論宗を主軸とした中観学の法義を確立し、各宗の差異を徐々に明らかにする論述である。
2021年8月16日
台湾にて
《中論研習》